はじめに
「歯科健診」という言葉でピンとくる人はどれくらいいるだろうか。保健事業の関係者であれば生涯を通じた歯科健診(いわゆる国民皆歯科健診)は経済財政運営の指針(骨太の方針)に明記された政府方針でもあり、周知のことだろう。しかし、多くの生活者にとって歯医者は痛みなどの自覚症状がある時に受診するところであり、専門的ケアを受ける場所という認知は必ずしも高くない。当社が行った調査 1 では、約6割が「痛み等の自覚症状があった場合に受診する」と回答し、「歯科健診やお口の専門的なケア(メンテナンス)のために定期受診する」という回答は4割未満であった。
当社とNTTデータは、厚生労働省より委託を受けて、「歯周病予防に関する実証事業(2019年度~2021年度)」や生涯を通じた歯科健診(いわゆる国民皆歯科健診)のあり方を検討するために「歯科健康診査推進事業(2020年度~2024年度)」を実施している。2023年度のモデル事業には、自治体と職域で延べ3.2万人の就労世代が参加した。本事業の目的の一つは「行動変容」であり、自治体や職域を通じて簡易な歯科検査を含めた歯科健診機会を提供することで、歯科医院を受診するきっかけを提供。口腔状態を確認し、専門的ケアを受けること(プロケア)や歯間ブラシなど歯みがき以外の口腔メンテナンスを行う(セルフケア)体験をすることで定期受診を促進することを目指している。
本事業では行動経済学などの研究による人の認知や意思決定特性を考慮して歯科健診のスキームを設計し、多様な実施モデルで効果検証を行ってきた。本稿では、行動変容をしやすくするデザイン(行動デザイン手法)をどう組み込み、どのような効果があったのか、主に現役世代を対象とした職域(事業所や保険者)での取り組みを中心に紹介する。
1. 求められる現役世代の歯周病予防機会
一番の歯の喪失原因が歯周病であることはよく知られているが、実はこれは高齢者特有の病気ではない。厚生労働省によると30代の3人に2人は歯周病の症状がみられており(厚生労働省歯科疾患実態調査)、自覚症状なく進行する。また、全身の健康にもつながるため、現役世代が定期的なケアや治療を受けて対策することが重要である。
自分に歯周病症状があるかどうか気づくきっかけとして最も分かりやすいのは、歯科医に口腔内をチェックしてもらうなど歯科健診を受けることであるが、現役世代向けの法定の歯科健診機会というのは実はほとんどない。歯科健診が組み込まれている乳幼児健診と学校健診以降、歯科健診が公的に用意されているのは特殊業務に従事する者のほかは、健康増進法に基づき自治体が努力義務で実施する歯周疾患検診(20歳以降主に10歳刻みで行われている節目健診)と後期高齢者歯科健康診査のみである(図表1)。つまり、現役世代は自ら歯科医院を受診して歯科健診を受ける必要があり、個人の健康意識と行動に委ねられている状況にある。
2. 歯科受診の阻害要因
ところが、「生活者視点」で行動を分析すると、歯科受診には行動の障壁が多い。
行動デザインの重要な前提は、人がいつもと違う行動をすることは余計なことであり、「行動しない」がデフォルトということである。この前提に立って求めている行動をするための意思決定プロセスを「生活者視点」で分析してみよう。
一般的に新たな行動をしようと意思決定するためには、多くの前提条件が揃う必要がある。
具体的には、
行動が求められていると気づく何らかのきっかけがあり
→ 直観的に否定的な感情が湧かず
→ 何をするのか理解でき
→ メリットがあると判断をし
→ 行動に必要な知識やモノ・自信などの準備ができた上で
→「今」行動する必要があると納得してはじめて「目標行動」の実行に至る。
このように、人が行動するには認知から準備までの意思決定プロセスを一気通貫で通過する必要があり、どこかに障壁があると脱落して「行動しない」ことが選択される。
現役世代の歯科医院の受診を目標行動とした場合、どのような行動の阻害要因があるだろうか(図表2)。
(1)認知
上述した通り、歯科健診機会の案内自体がなく、何らかの歯周病対策の情報が提供されたとしても「歯周病は高齢者の病気」であり自分事だと思わず、情報が目に入っても認知されない(非注意性盲目)。また、歯ぐきからの出血や歯間にものがつまりやすい、起床時の口臭などの自覚症状があったとしても、それが歯周病に関わるというリテラシーがないと歯科医院で対策するという行動と結びつかない。
(2)理解・判断
歯科受診についての情報を認知したとしても、虫歯治療以外の口腔チェックやケアに関心がない場合が多いこと、また「歯科医院=虫歯を治療するところ」と認知している人が多いため、普段から歯磨きをしており、痛みもないなど、特に問題がなければ受診する必要性を理解することが難しい。
(3)選択、準備
歯科受診に関心を持ったとしても「どの歯医者を受診すればいいのか」「歯科健診はどの歯医者でも受けられるのか」「所要時間や費用の相場感が分からない」「自覚症状がないときに予約をする際、どう言えばいいか分からない」という声もあった。受診する手前で、歯科医院を探して予約するハードルが高く、今すぐ受診する理由がないため先延ばしされやすいことがわかった。
3. 歯科健診機会を提供した効果
このように、歯科受診には多くの阻害要因があることから、本事業では歯科医院を受診しやすい環境づくりを行ってきた。具体的には、職域(事業所、保険者などの職域保険)と自治体(主に国民健康保険)を通じ、それぞれの実情に合わせて簡易な歯科検査を含めた多様なスキームで現役世代に簡易スクリーニング検査を含む歯科健診や歯科保健指導の機会を提供し、そこで受診勧奨することで歯科受診につなげることを目指した。
この結果、2023年度は歯科健診後の歯科受診率は歯科健診25.0%、簡易スクリーニング検査24.7%と、いずれもモデル事業参加者の約1/4が1ヵ月以内に受診している(図表3)。前年度の歯科受診率が14%前後だったことと比べると、歯科受診に一定の効果があったと考えられる。また、過去1年間歯科受診をしていない「未受診者」が歯科を受診する行動にもっとも影響を与える因子は「検査結果」であったことが判明しており(図表4)、歯科健診で口腔状態が分かり気づきを得たことが、歯科受診をする動機を高めたと考えられる。
4. 行動デザインのポイント
以下では、これらの効果を出すため対象者視点で歯科健診機会をどうデザインしたのか、職域・自治体で細かな設計をしており、主に3つのポイントを紹介する。
(1)行動しやすくする環境構築~同時実施
2023年度に重点的に取り組んだのが、健康診断(一般健診)などの機会と歯科健診を同時に実施することである。周知のように、一般健診は労働安全衛生法上、すべての従業員に毎年受診義務があり、健診センターや個別の医療機関で個人が出向いて行う場合と健診事業者が企業等に出向いて行う巡回健診がある。必ず受ける一般健診の流れの中に歯科健診や簡易スクリーニング検査を組み込むことで、従業員視点で歯科健診の案内が目に留まりやすくなる。また、一般健診のために業務を中断している時間内に歯科健診を受けられる上、周囲が参加しているため同調効果が働きやすく、健康意識が高まっている状況で気づきを得られ、認知・理解や実行ハードルが大幅に下がる。なお、一般健診以外にも集団予防接種や健康講座などの機会も活用した。
2023年度の簡易スクリーニング検査を含めた歯科健診の職域におけるモデル事業参加者の参加率は前年度5.5%に対して35.9%と4割近くに向上(図表6)。30代以下の若年層の参加率も増え44.2%を占めた(図表7)。また、歯科健診等を単独で実施した場合と比べて一般健診等と同時実施した場合の参加率は約7割と高く、現役世代への歯科受診機会のリーチという点で効果があった。
また、歯科健診後に歯科受診しやすくするための実行支援として、近くの歯科医療機関を検索できるWebサイトの案内を歯科衛生士から歯科保健指導と合わせて渡したり、健診・プロケア目的で予約するときの伝え方を案内するなどといった予約支援を行った例もある。
(2)案内を工夫する
歯科健診機会は、職域経由であっても口腔ケアへの関心度に左右されて参加率が低いという課題が過去の実証で明らかになっていた。そこで、全員が参加する前提で通知し、かかりつけ歯科医がいる場合など参加を辞退したい場合に申し出る「参加前提(デフォルト参加)」で案内する方法を実施したところ、参加希望者が歯科健診を受ける「任意参加」の場合の参加率1~2割に比べて6割、8割と大幅に参加率が高かった(図表8)。
また、歯科健診機会の訴求ポイントは歯周病予防という疾病訴求ではなく、マスクを外したときの口臭や歯の黄ばみ、歯周病による家計への影響など対象者の関心を引く内容を訴求した。歯周病の健康リスクは情報提供の位置づけで案内の裏面などに記載(図表9)。また、保険者が保健事業で実施したケースでは、高リスクの結果が出た場合でもその後の健診が無料となることを合わせて案内し、金銭的メリットも訴求した。
(3)簡便な方法を用いる~簡易検査
歯科健診・歯科保健指導は、歯科医師と歯科衛生士による口腔内チェックを受けるため受診者の気づきが得られることや満足度も高いというメリットがある。その反面、効率的とはいえ一人15分程度の所要時間を要することや集団健診会場に歯科健診のためのスペースが必要になる。このため、唾液などの検体で歯周病リスクを判定する検査キットを使った「簡易スクリーニング検査」を活用した歯科健診パターンも構築した。簡易スクリーニング検査は、同時実施の実現可能性を高める効果もある。
簡易スクリーニング検査は、対象者視点では一般健診を受けている間に検査が実施され、健診後に結果を得られる場合や、一般健診時は検体提出のみとして所要時間を短縮し、検査結果を後日受け取る場合のいずれも効率的である。
昨今、簡易スクリーニング検査を郵送で行う検査が多く市販されているが、本事業では実施・提出を個人任せにすると検査キットの未使用者が多く発生し、実施率が課題であった。2023年度は一般健診会場で同時に簡易スクリーニング検査を実施することや、事業所で検体提出日を決めて事業所からまとめて検査会社に郵送するなど、集団で実施・提出する運用をしたことで、個人が自宅で実施して自宅から郵送する運用よりも実施率は約20%高まった(図表10)。
また、主に保険者主導で実施するパターンとして、若年層もしくは糖尿病の受診歴があり歯科未受診者など、ターゲットを決めて歯科受診を促すモデル事業を行ったが、保険者から無料の歯科健診を案内しても通知のみでは歯科受診に結びつきにくいという課題があった。代わりに簡易スクリーニング検査を案内したところ、歯科受診率は23.2%であった。これにはもともと予定していた者も含まれているが、「簡易スクリーニング検査をきっかけに歯の健康に興味をもった」が23%含まれており、歯科医療機関受診に比べてハードルが低くて行動しやすく、検査結果が歯科受診の動機を高めたと考えられる。
おわりに
歯科受診に向けた行動デザインの方法は、はじめの一歩を踏み出す行動をしやすくする環境を構築し、動機を高め、決めた行動を実行しやすくすることである。上述した本事業の主な行動デザインポイントをまとめると図表11の通りとなる。
人の行動特性や心理に着目した行動経済学の認知度が高まるにつれ、人は必ずしも正しい行動について情報を与えられれば動くものではないことが広く知られるようになってきた。そこで、人の認知バイアスを含む意思決定特性を考慮し、ナッジを使ったコミュニケーションの工夫が行政の施策やビジネスにおいて広く組み込まれている。当社もそのアプローチを当初とっていたが、コミュニケーションだけでは行動変容に限界があると常々感じてきた。
行動変容を促すといえば、本人に対する動機付けが着目されがちだが、本稿で示した通り、意思決定プロセス全体の行動障壁を分析すると、行動しやすい環境構築と決めた行動を実行しやすくする実行支援も、行動変容の実現には必要だ。
行動をしやすくする環境を構築し、動機を高め、決めた行動を実行しやすくするには、単独の実施主体では実現できないことも多い。歯科健診であれば歯科医療機関や歯科医師会、健診機関、自治体、事業所、検査会社などとの連携が欠かせない。
行動変容観点からの今後の主な検討課題は、歯科受診意向は高まったが受診しなかった者への実行支援やデジタルツールの活用(簡易スクリーニング検査のアプリ版やタイムリーな情報提供など)、動機が高まる啓発タイミングの検証などがある。関係主体と連携して、生活者中心の行動を変えるデザインに継続的に取り組んでいきたい。