はじめに
「健康経営※1」という言葉が使われ始めて数年が経っている。健康経営の効果として、従業員の健康面改善、労働生産性向上、企業の持続的成長等が期待され、さらに、健康経営銘柄や健康経営優良法人等の認定制度が整備されたことを受けて、取組む企業も増えつつある。
健康経営の効果は、先行研究や実際の各企業の取組み等から示されつつある一方で、最新の研究では健康経営の効果は想定しているよりも限定的である可能性があることが示唆された。その理由として、対象者や提供プログラム、介入期間等の複数要因が考えられるため推測の域を出ないが、従来型のポピュレーションアプローチによる効果の限界があるとも考えられる。
そこで今回は、従業員に対する提供プログラムに着目して、効果的なプログラム提供のための工夫点や仕掛けにフォーカスし、健康経営の推進に寄与する行動経済学的な要素を含む新しい視点でのポピュレーションアプローチの可能性を示したい。
従業員への健康増進プログラムの効果に関する最新の研究
職場での健康増進プログラムの効果検証はこれまでにも多くの研究がなされており、行動変容や従業員の健康面の改善による医療費適正化効果、労働生産性損失の低減(プレゼンティーイズム、アブセンティーイズムの改善)効果があることが示されている。しかし、対象者数が少ない、比較対照群を設けていない、介入期間が短い等の研究の制約から限定的な効果が報告されているに留まる。
そのような状況で最近の研究として、米ハーバード大学医学大学院のZirui Songらは、ある米大手企業の20ヶ所の職場(従業員4,307名)に対して、18ヶ月間の健康増進プログラムを提供するランダム化比較対照試験(比較対照群は140ヶ所で従業員28,937名)を実施し、Journal of the American Medical Association(JAMA)」2019年4月16日オンライン版に掲載された※2。
研究におけるプログラムは、栄養や運動、ストレス軽減等の座学・実践に関する8つの要素で構成し、それぞれ4~8週間ずつ実施された(図表 1)。プログラムへの参加は強制ではなく任意であり、プログラムに参加した従業員には各回25ドル程度のインセンティブが付与され、最終的に35%の従業員が1つ以上のプログラムに参加した。
18ヶ月間のプログラム実施の結果、プログラム実施群は比較対照群と比較して、定期的な運動習慣や積極的な体重管理に関する意識・行動変容効果がみられたものの、体重、血圧、血糖値等の医学的検査項目、医療費、アブセンティーイズム等の業務パフォーマンス、等については統計学的に有意な差がみられなかったと報告された。
この研究の中でSongらは、プログラムによる健康面の改善や医療費適正化効果、労働生産性損失の低減効果について、これまで期待されていたよりも効果は小さく限定的であるのではと結論付けている。
一方で、この研究成果の解釈には留意が必要である。18ヶ月間では長期的に得られる効果が出なかったのではないか、効果に影響を与える程の集中的なプログラムではなかったのではないか、業種に依存するのではないか等の考察に加え、人種や文化、制度等も異なるため、本邦で一般化できる研究成果とは言い切れない可能性がある。
このような研究的制約のもと、提供プログラムの強度等の詳細は明らかでない中で、対象者へのプログラム提供(介入)期間と参加率に着目した。医療費適正化効果や業績向上効果については、18ヶ月間という期間は短かったため効果が現れなかったと考えるのが妥当と言える。
しかし、通常の健康増進の観点で見た時に、18ヶ月間も運動や食事の改善に取り組んだにも関わらず、健康状態やアブセンティーイズム、業務パフォーマンスが改善しないとは考えにくい。本当に効果がなかった、もしくは18ヶ月間効果が持続しなかったと考えるのが妥当なのではないかと考える。
また、任意とはいえプログラム参加率も35%に留まっており、従業員への訴求力は十分でなかったとも考えられる。
この判断が正しい場合、プログラム自体(提供方法、プログラムの内容等)を見直すことが必要となる。もちろん、業種や人種、文化等による影響も想定できるが、これら要因は変動できないため、本レポートでは検討外とする。
これらの仮説のもと、本邦における従業員への健康増進への取組みを振り返り、従業員が意欲的に取り組むことができ、長期的な健康状態やアブセンティーイズム、業務パフォーマンス改善効果を引き出すことで、健康経営をより推進するための健康増進プログラムのあり方について検討したい。
健康経営の現況と課題
まず、従業員への健康増進の視点での「健康経営」の現況とその課題を整理したい。
「健康経営」とは、従業員等の健康管理を経営的な視点で考え、戦略的に実践することであり、企業理念に基づき、従業員等への健康投資を行うことは、従業員の活力向上や生産性の向上等の組織の活性化をもたらし、結果的に業績向上や株価向上等の企業の持続的成長につながると期待されている(図表 2)※3。
また、経済産業省では、健康経営を推進するための各種顕彰制度として、平成26年度から「健康経営銘柄」※4、平成28年度からは「健康経営優良法人(大規模企業部門、中小企業部門)」※5を選定している。
具体的な健康経営の取組みとしては、健康経営の専門部署や最高健康責任者(CHO)設置、インセンティブ施策や専門職による健康増進セミナー開催、健保組合等とのコラボヘルスや自社内システムによるICTを活用した健診結果や健康状態の「見える化」施策等が取り組まれている※6。
しかし、健康に無関心な従業員を意識・行動変容させることは容易ではなく、健康経営の推進に課題を感じている企業も多い。2018年に弊社が実施した従業員数700名以上の企業に対するアンケート調査(回答数163件)では、従業員の健康増進に関する具体的な取り組みを実施していない企業は40%に及んだ。
また、健康経営を進める上での課題としては、「社内へのPR不足」「従業員の興味・理解の欠如」といったプログラムの内容や提供に対する工夫や仕掛けで改善の余地がある課題が上位5位に含まれていた(図表 3)。
ポピュレーションアプローチの視点、行動経済学的な要素を取り入れた健康経営推進施策の検討
健康経営に積極的に取り組んでいる複数の企業にヒアリングを実施したところ、健康経営は企業単位でのポピュレーションアプローチと理解されることが多い。前述のSongらの研究でも全対象者に対してプログラム参加インセンティブを導入する、多様なプログラムを実施する等、企業単位で従業員の健康増進を促進させる工夫を取り入れていた。
また実際の事例に目を向けると、全社的に健康に関するタッチポイントを増やすために媒体(チラシや健康状態の分析グラフ)配布やセミナーを開催する企業も多く、ポピュレーションアプローチとの理解が妥当であろう。
健康経営をそのように考えた時、ソーシャルマーケティング等の領域で活用されている行動経済学的な視点が応用できると考える。後述の事例でも紹介するが、典型的なポピュレーションアプローチである納税対策や検診の受診勧奨施策等では、近年では行動経済学的な要素を取り入れて対象者のターゲッティングを行い効果的にアプローチすることで、納税者や健診受診者を増やす成功事例が増えている。
同様に、健康経営施策に行動経済学的な要素を取り入れることにより、無関心層の意識・行動変容を促し、プログラムへの「飽き」を軽減することで継続的な活動を引き出し、長期的な健康状態やプレゼンティーイズム、アブセンティーイズムの改善効果、企業の持続的な成長をもたらす、即ち健康経営をより実効的にするための方法を検討したい。
本レポートでは、行動経済学的な要素を取り入れたアプローチ方法として、①「本人に対するアプローチ」と②「周囲の環境からのアプローチ」の2つに分けて検討する。
① 本人に対するアプローチ
本人に対する既存の健康経営施策としては、健診結果等をグラフ化することによる見える化施策や健康活動に対するインセンティブ施策等が取り組まれている。
しかし、これらの仕掛けでも無関心層を巻き込むことができない、継続的な取組みに繋がらないことが多い。そこで、他の分野における行動経済学的な仕掛けを紹介しつつ、個人の行動特性を考慮するポピュレーションアプローチにより、健康経営施策を深化させるための工夫や仕掛けをいくつか検討したい。
事例として例えば、英国での納税対策や本邦での乳がん検診受診率向上施策では人々が強制によってではなく自発的に望ましい行動を選択するよう促すための「ナッジ(ひじで軽く突くことを指す。
転じてそっと背中を押すように行動選択を促すこと)」という行動経済学的な要素が取り入れられている。英国の納税対策の例では、納税通知書の中に「同じ地域の住民たちの納税率」を併記し未納税者に納税者の行動への同調を促すことで、ほとんどコストをかけずに納税率を最大12%向上させた。
また、本邦の乳がん検診受診率向上施策の例では、「受診経験の有無」と「受診実行意図の有無」でセグメントを分け、個人の異なる心理・行動特性のセグメント毎に受診勧奨のメッセージを変えたリーフレットを送付した地域介入(ティラード介入)研究を実施した。その結果、従来のメッセージを送付した群と比較して、検診受診率が約4倍向上したという結果が示されている(図表 4)※7。
これらを健康経営施策に応用する方法としては、既存のインセンティブ施策や普及啓発に関する取組みについて、従業員の性格や行動特性、意思決定プロセス等(購買や移動等の人の行動結果を表す「ビッグデータ(Big Data)」に対して、ここでは人の行動理由を表す「深層データ(Deep Data)」※と表現する)で、行動理由・要因に応じていくつかの集団にセグメント化し、そのセグメントに応じてインセンティブやメッセージ等の訴求内容を変化させることで、単なるポピュレーションアプローチよりも効果が得られる可能性が期待される。
※「深層データ(Deep Data)」の活用可能性に関する当社の関連レポート
「どうすれば人は動くのか~公共ペルソナ・マーケティングによる政策アプローチの可能性」
「どうすれば男性の育児休業取得者が増えるのか?~男性の家事・育児に関する価値観調査」
インセンティブ施策を例にすると、まず従業員の深層データをもとにインセンティブに対するニーズを把握する必要がある。その上で、単一なインセンティブではなく、例えば学習好きな従業員セグメントには●●、誰かの役に立ちたい従業員セグメントには▲▲、日頃の疲れを発散させたい従業員セグメントには■■等、従業員の深層データから抽出されたニーズに基づいたコンテンツを用意することで、より多くの従業員が関心を持ち施策に意欲的に取り組む可能性が考えられる。
また、本人に健康状態の推移データをフィードバックする普及啓発施策では、従業員の深層データに応じて、例えばセグメントAには危機感をあおるメッセージ、別のセグメントBには健康活動による明るい将来を提示するメッセージ、さらに別のセグメントCには不健康により家族等への影響を提示するメッセージ等、を提示することで、従来型の画一的なアプローチでは行き届かない、より多くの従業員に効果的にアプローチできる可能性があると考える。
さらに昨今、本人に対して意識・行動変容を促進するソリューションとして注目されている、健康に寄与する行動に取り組むほど保険料の割引等が適応される「健康増進型保険」が登場している。中でも、住友生命「Vitality」※9は、複数の行動経済学的な要素を取り入れて、より意識・行動変容を促す仕掛けとして参考になると思われる。
Vitalityの場合、保険料が割引されるという点では他社の健康増進型保険と同じだが、保険料を初年度に全員一律に15%割引し、翌年度以降、健康に寄与する活動の有無で保険料の割引率が変動する仕組みになっている。これはまず保険料を割引くことが、「人は得すること以上に、損することを回避するような行動をとる」という「損失回避」に関する人々の行動経済学的な特性を取り入れている例である。
さらに、保険料割引率はいくつかのランクに分かれており、健康を格付けするというゲーミフィケーション的な要素も含めて、被保険者がより健康活動に取り組めるような仕掛けが組み込まれている(図表 5)。実際に世界各国Vitalityでは、健康格付が高いランクの人(健康に寄与する活動により取り組んでいる人)の方が行動変容の効果があり、心疾患やがん等による死亡率が低いという科学的なエビデンスも示されている※10。
② 周囲の環境からのアプローチ
健康に無関心な従業員が自ら努力して健康増進活動を開始することや継続することは非常にハードルが高いと思われる。そこで、職域における周囲の環境から本人の意識・行動変容を高める仕掛けを検討する。
まずは、企業単位での取組みが比較的容易であるポピュレーションアプローチとして足立区における「あだちベジタベライフ」施策を例に挙げる。これは、行政が区内の居酒屋等に協力を仰ぎ、お通しでは必ず野菜を提供する、焼鳥屋では肉の串焼きよりも先に野菜の串焼きを提供するといった提供方法で、住民の無意識下で野菜摂取量を増やし、野菜から先に食べてもらうことで健康行動を促すという仕掛けである。
これを企業単位の健康経営施策として実行する例としては、社員食堂では必ず小鉢で野菜を含むメニューを提供する、ビュッフェ形式であれば野菜を多く摂取できるように複数のエリアに野菜コーナーを設置する等の施策としての応用ができる可能性がある。
また、健康経営銘柄に選定されている企業での実例としては、職場や部署単位での「健康リーダー」の設置も好事例である。健康リーダーがイベント企画や目標設定等を行う役割を担い、無関心層を含む同僚を巻き込んで活動することで、集団での健康増進に取り組むことができ、活動参加率を向上させている。また、職場や部署単位で競い合う取組みや同僚の目標達成度が優秀だった部署の健康リーダーにインセンティブを付与したり、部署のコミュニケーション費を提供したりすることでチーム性を高めることで、相乗効果を生んでいる事例もある。
これらの効果は、「人は周囲に行動を合わせようとする」「大勢の人が実施していること、発言していることに引っ張られる」という「同調効果」という行動経済学的な要素も取り入れたアプローチ方法であると言える。
他にも従業員の家族を巻き込んだ事例も考えることができる。既存のインセンティブ施策の多くは、換金や商品交換といった本人を対象としたインセンティブだが、子どもが喜ぶようなキャラクターやヒーローイベントの招待券や握手券等をインセンティブに設定することで、「家族のために」健康活動に取り組むという動機が生じて、活動がより促進される可能性もあると考える。
おわりに
本邦の近年の政策動向として、環境省が「日本版ナッジ・ユニット(BEST:Behavioral Sciences Team)」を2017年4月に発足し※11、さらに経済産業省も社会保障等の分野におけるナッジの活用を進めるため、省内課室横断のプロジェクトチーム「METIナッジユニット」を2019年5月に設置しており※12、行動経済学的な視点を様々な分野で取り入れようと国策として舵を切っている。
中でも、行動経済学と健康・医療・介護等の分野との親和性が高いと期待されており、ヘルスケア分野においてもナッジの有効活用を進める環境が整備され始めている。
また、近年では健康経営を「ウェルビーイング経営」と定義を拡大して表現される等、職域での健康増進への期待は大きい一方で、健康経営の健康増進効果は十分なエビデンスが確立されているとは言い難い。
そこで、健康経営施策をより推進するために、既存のインセンティブ施策やプログラム提供、健康状態の見える化等に対して、ナッジ等の行動経済学的な要素を取り入れることで、従業員に健康経営に向けた望ましい行動をより促すことができる可能性について、まずは効果検証から始める意義があると思われる。
これまで健康・医療・介護分野ではハイリスクアプローチからポピュレーションアプローチへと時流が変化したが、確固たる効果が得られているとは言い難い。そこで、個人や集団の深層データを活用して行動経済学の観点を取り入れることで、より効果的に意識・行動変容を促す、云わば「ネクスト・ポピュレーションアプローチ」が健康経営をはじめとする様々な健康・医療・介護分野で効果を発揮する可能性に期待したい。
執筆者略歴
西口 周
社会基盤事業本部 ライフ・バリュー・クリエイションユニット シニアコンサルタント
博士(人間健康科学)。老年学を主とした臨床研究、疫学研究(主著共著合わせて学術論文50本以上執筆)を専門とする特別研究員、大学教員を経て、2017年より現職。介護予防を中心とした地域包括ケアシステムや健康・医療・介護データ利活用に関する政策提言・実証事業、ヘルスケアビジネスの新規事業化支援等に従事。