触覚情報通信がもたらす未来のQoL
ニューロイノベーションユニット
コンサルタント 長岡 陽
我々は多様なメディアを通じて大量の情報を獲得している。モールス信号、電話、ラジオなどの聴覚による情報通信や、狼煙、ファクシミリ、新聞や書籍などの視覚的情報通信、そして20世紀以降のテレビ、インターネット動画等の視聴覚情報通信は我々の生活に無くてはならないものとなった。21世紀の情報通信において、解像度や音質の向上、臨場感の向上が求められてきたが、近年では新たに視聴覚以外の感覚も情報通信できるようにしようという動きが活発になってきた。これにより、これまでの情報通信で得られた体験とは全く異なる世界が広がることが期待されている。その適用は、教育、医療・福祉から、ファッション、エンタテインメントまで幅広い分野に拡大し、今まで以上にデジタルの力が発揮されるようになると期待されている1。
視聴覚に次ぐ五感再現技術として近年注目されているのが触覚である。これは、嗅覚や味覚と比較して生理学的知見が蓄積されていることや、センシング技術開発が進んでいることによる。マーケティング分野の研究で消費者の製品評価における触覚の重視度を調査すると、多くの製品カテゴリーにおいて触覚の重視度は視覚と同程度に高い2,3。特にバスタオルやトイレットペーパーでは視覚情報より触覚情報を重視する度合いが極めて高かった。実際、英スーパーマーケットチェーン「アズダ」では、店内に陳列している数種類のトイレットペーパーを包装から出し、買い物客が触って質感を確かめられるようにしたところ、当該ブランドの売り上げが急増した4。このように、実際に商品に触れることで顧客の購買意識を高めることができるが、現在触覚の体験には実物のサンプルが必要であり、オンライン上では体験することができない。もし触覚もオンライン上で簡便に再現・体験できるようになれば、Eコマース市場にとっては新たなイノベーションである。
このような背景のもと、触覚関連技術市場は2016年から2023年にかけて、年平均成長率約17%、2023年には220億米ドルの市場に成長すると予測されている5。
そもそも「五感」とは何だろうか。感覚とは外界の情報を知覚する方法であり、アリストテレスはこれを視覚・聴覚・嗅覚・味覚・(広義の)触覚の五つに分類している6。現代の生理学における触覚(狭義)とはツルツルやザラザラといった振動による感覚だが、広義の触覚には振動以外にも表1の体性感覚に分類される多様な感覚が含まれている。本稿では、この広義の触覚である体性感覚を触覚とする。
触覚は自己認知や身体感覚に重要な役割を果たしている。それゆえ、情報通信技術を活用して触覚刺激を転送できれば、情報空間における自己の臨場感や対象物の実在感を高めることができる。バーチャル環境で触覚刺激を提示することで前頭葉の活動が高まり、実在感が高まることがわかっている7。
さて、触覚を再現するためにはその原理を理解する必要がある。触覚は皮膚表面で対象物の機械刺激をセンシングし、その情報が脳に送られて情報処理の過程を経て知覚される。皮膚には図1および以下に示すような複数の触覚受容器が存在する。
- メルケル盤:主に凹凸やエッジに反応。物体の形や質感を認識。
- マイスナー小体:指と物体の間の滑りに反応。握る力の制御など。
- パチニ小体:数μm程度の凹凸でも認識。振動に敏感に反応。
- ルフィニ終末:皮膚の引っ張りに反応。
- 自由神経終末:温冷覚や痛覚に反応。
これらの受容器の活動を再現することができれば、どのような触覚でも再現できると考えられている8。
指先などで知覚した触覚情報は、脊髄や視床で中継され、大脳新皮質の体性感覚野へ送られる。
また、ヒトが自ら物を触るアクティブ・タッチと受動的に触れられるパッシブ・タッチでは、喚起される触覚の感度や質が異なることが知られている9。齧歯類のヒゲを使った実験などにより、近年その細胞レベルから回路レベルの解明が進んでいる10。
触覚は様々な情動反応を引きこすことも知られている。触覚が引き起こす情動として最も顕著なものがオーガズムだろう。生殖器への(人によっては唇や首筋、膝、肛門など非生殖器への11)触覚刺激によりオーガズムに至ることが知られている。この場合、快感と関連した報酬系が活性化するだけでなく、不安や警戒と関連した扁桃体や、意思決定に重要な役割を果たす領域である外側眼窩前頭皮質や前側頭極の不活性化が生じる12,13。
触覚と情動については古くから様々な心理学研究が進められており、どんな刺激によって人に快感を与える、もしくは不安を取り除くことができるのかなどの示唆を得ることができる14。
ここまで、生理学、特に神経科学分野における触覚の概説を行ったが、触覚情報通信においては、工学分野と生理学分野の共進化が重要である。触覚の計測機器は多岐にわたり、目的に応じて接触や力を検出する触覚・力覚センサ、すべり覚センサ、硬さ覚センサ、温度センサなどがある。
高分子圧電材料を用いた計測技術も開発が進んでいる。これは、圧力を加えることで変形し電圧を生じる圧電効果を用いたものである。例えば、ポリフッ化ビニリデンはその出力特性がパチニ小体と類似していることから、触覚センサ材料としての応用が考えられている。
再現技術について、東京大学の篠田・牧野研究室では、超音波を用いることで特殊なデバイスを手につけることなく触覚を提示するシステムを開発している15。さらにこのシステムを活用し、ホログラムにインタラクティブに触覚を付与するシステムも開発している。これは、例えば手術で手の汚れた医師が、空中タッチパネルで情報を入出力しながら手術を進めるなどの応用が考えられる。
また、タッチパネル型ディスプレイとの親和性が高いと考えられるものとして、超音波領域の振動による摩擦低減現象を利用するものや、静電気力による吸着を用いるものもある16–18。
振動子により画面全体を機械的に振動させる手法は、昨今のスマートフォンなどでも採用されているメジャーな方法である。
電気通信大学の梶本裕之教授らは、電気刺激と機械刺激を組み合わせることで、自由神経終末を除く4種類の受容器(図1参照)を選択的に刺激できるデバイスを開発している19。
ここまでハードウェア研究の分野を概観したが、実際に触覚関連の技術開発を行う際の留意点がある。触覚はハードウェアだけでなくソフトウェアの開発も必要であり、この分野では米Immersion社が数多くの特許を保有している。技術開発の際は、Immersion社をはじめとした他社の特許侵害にあたらないよう気を配る必要がある。
ここまで、いかにして触覚を再現するか、触覚の力学的特性の再現という観点から述べてきた。現在研究されている触覚提示手法は大きく分けて二つあり、これまでに述べた触覚に直接刺激を与える方法と、クロスモーダル知覚(複数の感覚を組み合わせて、ある感覚の受け取り方を変容させること20)による触覚の提示手法がある。後者の手法はバーチャルリアリティ(VR)分野で研究が進んでいる。
クロスモーダル知覚を活用することで、簡略化したシステムでも触覚を再現できることが示されている。例えば、カーソルのスピードを変化させることでマウスに重みを感じさせることができる21。明治大学の渡邊恵太准教授のホームページでは、特別な機器を必要とせずクロスモーダル知覚による擬似触覚を体験できる22。
東京大学の廣瀬通孝教授らのグループは、被験者への視覚刺激を変化させることによって、被験者が手に持っている対象物が変形したように感じさせるシステムを開発した23。さらにこれを応用した”Unlimited Corridor”は、湾曲した壁に手を沿わせながら壁に沿って歩いてもらうもので、被験者のヘッドマウントディスプレイには直線的な経路が提示される。被験者は実際には有限のスペースをぐるぐる回っているのだが、無限に直進し続けている感覚を得ることができる24。このように、クロスモーダル知覚を活用することで新しい表現の可能性が広がると考えられる。
このような研究が進んでいる背景として、これまでは触覚の情報通信が難しかったということが挙げられる。視覚や聴覚とは異なる触覚の特徴はその相互作用性にある。即ち、手で触れることにより、物体の状態が変わるため、通信に遅延があると、物体に優しく触れたつもりが潰してしまった、ということもあり得る。しかし、2020年に開始予定の5G通信では超高速・低遅延の通信が可能となることから、視覚・聴覚に次ぐ触覚情報通信の萌芽期を迎えたといえる。実際、今年に入り5G通信による触覚情報の伝送が各通信会社で実証されている25,26。これにより近い将来、視聴覚に加えた触覚情報通信が世に広まることは間違いない。
以下に、様々なビジネス領域における触覚再現技術の応用事例や、これから応用されると考えられる例を紹介する。
エンタテインメント
座席の動きや風、香り、水しぶきなど、様々な方法で映画を楽しむ「体感型」映画システムである4D映画が好評を博している。国内ではすでにTOHOシネマズ系列の「MX4D」やユナイテッド・シネマ系列の「4DX」を一部の映画館で楽しむことができる。さらに、株式会社ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント、TOHOシネマズ株式会社、ソニー株式会社は専用の「ハプティックベスト」を客に着用させ、映画体験をより豊かなものにするキャンペーンを展開した27。
音楽の楽しみ方の一つに、耳だけでなく体全体で音を「浴びる」ということが挙げられる。クラブやコンサート会場であればこういった楽しみ方ができるが、自宅の音響システムやヘッドフォン等ではなかなかこの感覚を再現するのは難しい。米Subpac社は、音の振動を体で感じることを目的とした”Subpac”を販売している28。薄いリュックのような形で、背負ったり椅子の背もたれに置いたりすることで、音楽やゲーム、映画などへの没入感が向上する。一方、よりコンパクトに音の振動を楽しむことができる腕時計型サブウーファー”Basslet”が独Lofelt社によって開発されている29。こちらはクラウドファンディングサイトKickstarterで出資を募集し、5万米ドルの目標金額に対し、一ヶ月で約60万米ドルの出資を集めた。
早稲田大学およびH2L株式会社の玉城絵美氏らが開発・販売を行っている”Unlimited Hand”は、電気刺激により擬似的に深部感覚を提示している。これにより、例えばVR空間で視覚的に自分の手に鳥がとまっている映像を流しながら”Unlimited Hand”で深部感覚を刺激し、鳥の重さを感じることができる。また同じシステムで、ゲーム内で撃った銃の反動を感じたりすることもできる30。
マーケティング
米ノースウェスタン大学発ベンチャーのTanvas社は、2017年のCES(Consumer Electronics Show)でタブレット型触覚ディスプレイを出展し、タブレット上で服の生地の触り心地を確認できるEコマースサイトのデモを提示した31。
米Procter & Gamble社の男性用カミソリブランド・Gilletteは、上記Tanvas社の触覚ディスプレイを用い、これから父親になる男性をターゲットとして、ヒゲの有無による触り心地の違いを体験させ、赤ちゃんにとってどちらがよいのか考えてもらうキャンペーンを展開した。このキャンペーンにより、シェーバーの売り上げが9%伸びたという32。
クリエイティブエージェンシーのPARTY社などが手がけた安室奈美恵氏の楽曲”Golden Touch”のプロモーションビデオ33では、画面中央に指を置くことで、あたかも動画の世界に「触れた」感覚体験を提供している。このビデオは各メディアで紹介され、国内外で大きな話題となり、公開から1週間で500万回再生された。
医療・福祉分野
医療分野では、ロボット支援手術が「ヘルスケア革命」とまで言われているが34、この分野でも触覚再現技術が注目されている。手術支援ロボットとしては米インテュイティヴ・サージカル社のda Vinciが世界中で使われており、国内では2016年9月末時点で237台導入されている35。このロボットは操作者が指先を大きく動かしてもロボットの「指」は少ししか動かなかったり手ぶれが補正されたりなど、細かい作業がしやすい。一方、da Vinciの問題点として触覚フィードバックが無いことが挙げられており、国内でもこれを原因とした医療ミスによる死亡事故が起きている36。
こういった状況に対し、触覚フィードバックを持たせた手術支援ロボットの開発が進んでおり、臓器を押し込んだり摘んだりすると、その感覚が操作者に伝わるようになっている37。
腕を失った患者のための義手では、体の他の部位に触覚をフィードバックするもの38から硬膜下電極で脳の体性感覚野を刺激するもの39まで、触覚をもたせたものが数多く開発されている。最近では痛みも感じることができるものが開発されている40。
また、診断に必要な触診技術の習得のために、バーチャル環境で触診体験を行えるデバイスが開発されている。岐阜大学の川崎・毛利研究室は、株式会社丸富精工などと共同で、触診訓練デバイスを開発しており41、乳がんなどの患者に負担を掛けることなく触診訓練ができるような環境を整備している。
また、リハビリテーション分野では、脳卒中で半身の触覚が失われた患者に対し、触覚のある側の半身に触覚をリアルタイムに提示することで、15分の訓練である程度触覚が回復することが知られている42。
自動車関連
自動車関連でも、触覚の提示による安全技術の向上が図られている。路面の状況をタイヤからハンドルに伝えるもの43や、アクセルの踏み込み量に応じて触覚フィードバックを与え、安全運転を促すものが研究されている44。
日産自動車株式会社は、exiii株式会社の触覚ウェアラブルデバイスを用いてCADデータに「触れる」ことでインテリアデザインの確認が出来るようにしている45。これにより、デザインプロセスの短縮や完成イメージとのギャップの最小化が可能になるとしている。
デザイン
触覚はプロダクトデザインには欠かせない要素だが、物理的な機構はその制約にもなっていた。触覚再現技術を応用することで、今までにないデザインも可能となる。
米Apple社のiPhone7のホームボタンは実際には動くボタンではなく感圧式センサであり、圧をかけることで触覚フィードバックを返している、というのはよく知られている。これにより防水性能が向上したと言われている。
また、米Microsoft社のArc Touch Mouseは通常のマウスであればセンターホイールがある部分に「タッチストリップ」を搭載し、これを撫でることでセンターホイールをまわしたような触覚フィードバックを与えている。物理的な機構を取り除くことでスリム化に成功し、ポケットに入れられるマウスとして好評を得ている46。
Googleが提唱し近年のUIデザイントレンドになっているマテリアルデザインでは、実際にボタンを押し込んだような視覚効果が採用されている47。これにより、カーソルで実際に触れたかのような印象を与えている。
その他
ゆったりしたテンポでの刺激は落ち着きや前向きな気持ちをもたらし48、逆に速いテンポでは楽しさや興奮、驚きといった情動をもたらすことが知られている49。こういった先行研究をもとに、英Team Turquoise社は心拍を模した振動を与える腕時計型刺激装置Doppel50を発売し、安静時心拍数より20%遅い刺激を与えることで、スピーチ課題前の緊張する状況で落ち着きをつくり出すことに成功した51。また、逆に早い刺激にすると、集中力を維持することができた52。
他にも、ペンの書き味を改変するものとして、ペンにアクチュエータを搭載するもの53–55や、机にマイクと振動子を埋め込むものなどが提案されている56。
以上は、主に触覚をいかに製品に応用するかという視点からの事例であるが、それ以外にも重要な応用分野がある。それは、触覚をモデル化し、シミュレーションするための計測システムの分野だ。触覚による快感を定量的にシミュレーションできるシステムは、消費者が言語化できない、もしくは無意識に感じている触感を数値化できる可能性がある。
まだ研究段階ではあるが、例えば口内触覚、即ち食感の分野では、岐阜大学の西津貴久教授らのグループが食感の物理化学的特性について研究しており、食品を噛み砕いたときの歯ごたえを客観的に計測する手法を開発している57。
もちろん、計測装置市場の新たな分野としてとらえることもできるが、より多くの企業にとって重要なことは、計測装置による定量的評価の導入だ。自社が今まで数少ない官能評価士に頼っていた食感評価を定量化、データベース化することによって、より個々の消費者の嗜好に合った製品やサービスを提供できるようになる。
この計測システムのデータを活用し、食材や口内に振動刺激を与えることで食感を付加することもできる58–60。これにより、加齢等で咀嚼能力が下がり硬いものが食べられなくなってしまった人でもバリバリと煎餅を噛み砕くような食感を得ることができる。
本稿では、前半は触覚とその神経基盤について、後半は触覚情報通信に必要な計測技術、再現技術、通信技術の現状について概説し、実ビジネスとしてどのように触覚が応用されるかを紹介した。
ここまで論じてきたように、触覚情報通信にはQoLを向上させる様々な可能性が秘められている。触覚は加齢により衰えることが知られているが61,62、触覚再現技術によりこれを増強することも可能となるだろう。また、触覚情報を付加することで、遠隔地間でもより自然かつ現実感のあるコミュニケーションが可能となる。
このように視覚情報、聴覚情報に次ぐ第3の感覚情報として、急速に注目を浴びつつある触覚情報を的確にビジネスにつなげるために、NTTデータ経営研究所が事務局を務める応用脳科学コンソーシアムでは、本分野のトップランナーの研究者を講師として最先端の知見を集めた「触覚コグネティクスワークショップ」を2018年秋より開催する予定である。本ワークショップでは、触覚を活用した新規事業開発・ビジネス応用に有用な脳科学研究、ハードウェア、魅力的なコンテンツ開発について紹介する。
個々のひとが感じる触覚を定量化、可視化し、一人ひとりに最適な触感、触り心地のよい商品やサービスの提供はもとより、触覚情報をデジタル情報として通信し、他人と共有できる未来はもう目の前に来ている。
- 応用脳科学コンソーシアム
https://www.nttdata-strategy.com/can/ - 触覚コグネティクスワークショップについてのお問い合わせ
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