はじめに
日本では高齢化が進展する中、高齢者一人ひとりが住み慣れた地域で自分らしく暮らし続けられる社会の実現が重要な課題となっている。そのため近年は、社会参加や生きがい、生活満足度といった観点も含めて高齢者の生活を捉える「ウェルビーイング」(以下、高齢者ウェルビーイング)への関心が高まっている。
また、高齢者本人が健康や生活に関するデータを活用できる基盤として、PHR(Personal Health Record)への期待も高まっている。PHRは健康データを蓄積・共有する仕組みとして整備が進みつつある一方、高齢者ウェルビーイングの実現に向けてどのような価値を提供できるのかについては、具体的なユースケースや事業モデルの検証が求められている。
そこで本稿では、経済産業省「令和8年度ヘルスケア産業基盤高度化推進事業(高齢者ウェルビーイングサービスにかかるビジネスモデル検証調査事業)1」(以下、本事業)の一環として開催したパネルディスカッション2の内容を基に、高齢者ウェルビーイング領域におけるPHRの活用可能性や社会実装に向けた示唆を紹介する。
1 NTTデータ経営研究所「令和8年度ヘルスケア産業基盤高度化推進事業(高齢者ウェルビーイングサービスにかかるビジネスモデル検証調査事業)の公募について」(2026年6月11日)
2 NTTデータ経営研究所「経済産業省 高齢者ウェルビーイングサービス公募イベント開催」(2026年4月28日)
1.高齢者ウェルビーイングにおけるPHR活用への着目
「ウェルビーイング」とは、心身の健康だけでなく、人とのつながりや生活環境、人生に対する満足感なども含め、人がより良く暮らせている状態を表す概念である3。
高齢者のウェルビーイングを考える上では、健康状態だけでなく、社会参加や生きがい、生活満足度といった観点も含め、日々の生活を幅広く捉えることが重要となる。こうした多面的な状態を継続的に把握し、本人の生活や支援に生かすための基盤の一つとして、PHRの活用が期待されている。
PHRは、本人が健康データを管理し、必要に応じて医療機関、介護事業者、自治体、家族などと共有できる仕組みである。近年では、公的機関が保有する健康・医療情報についても、マイナポータルを経由してPHRとして個人に提供できる環境が整えられつつある(図表1)。
【図表1】PHRサービスの概要

NTTデータ経営研究所が作成
こうした中、PHRは高齢者本人が健康や生活に関するデータを活用するための基盤として期待されている。経済産業省はこれまでPHRサービスの社会実装に向けた各種事業を推進してきた。その一方で、現場における具体的な活用方法や提供価値の明確化、サービスの普及・事業化には依然として課題が残されている。
そこで本事業では、PHRデータを活用し、年齢や健康状態にかかわらず、幅広い高齢者の健康に資するサービス(高齢者ウェルビーイングサービス)のユースケースの創出が企図されている。当社は本事業を受託し、公募により採択した事業者への伴走支援を通じて、ビジネスモデルの検証に取り組んでいる。
次章では、2026年6月に開催した事業者公募イベントにおけるパネルディスカッションの内容を基に、高齢者ウェルビーイングサービス領域におけるPHRの活用可能性と社会実装に向けた課題や示唆を紹介する。
3 Organisation for Economic Co-operation and Development. OECD Guidelines on Measuring Subjective Well-being (2025 Update). 2025, Organisation for Economic Co-operation and Development Publishing.
2.「高齢者ウェルビーイングサービスに求められるPHRのユースケースとは」パネルディスカッションレポート
NTTデータ経営研究所 ディレクター 大野をファシリテーターとして、社会福祉法人伸こう福祉会理事長 遠藤 健氏、藤田医科大学地域包括ケア中核センター長補佐 都築 晃氏、豊明市 市民生活部共生社会課長 松本 小牧氏、株式会社健康企業代表取締役 亀田 高志氏の4名の専門家によるパネルディスカッションが行われた(図表2)。
【図表2】登壇者紹介

NTTデータ経営研究所が作成
2-1.高齢者ウェルビーイングの理念と実践
(1)豊明市の「普通に暮らせる幸せ」という理念
松本氏は、豊明市(愛知県)が掲げる「普通に暮らせる幸せ」という理念について詳しく説明した。「地域包括ケアや自立支援という言葉は、高齢者の方にとっては魅力的に聞こえない言葉です。私たちは、そういった概念を言い換える言葉として、『普通に暮らせる幸せ』をキャッチフレーズにしています」と述べた。
この「普通」とは、いわゆる「ノーマル」という意味ではなく、誰にでも、その人なりの日常生活があることを指している。どのような環境で暮らしていても、その人にとっての何気ない日常がある。しかし、高齢者の場合、その日常は配偶者の死や友人の介護施設への入所、自身の怪我といったきっかけによって、容易に崩れてしまう脆さを抱えている。そうした一人ひとりの「普通の日常」をできる限り守り続けることが、豊明市の目指す姿であるという。
(2)高齢者の状態変化と支援のあり方
松本氏は、高齢者の身体機能は85歳以降に低下する傾向にあるが、重要なのは波のように回復する可能性があることだと述べた。「介護というと不可逆なもの、寝たきりといった状態を想像しがちですが、一般的にフレイルや虚弱には可逆性がある。元に戻れる可能性があります。一度落ち込んだとしても、また元に戻るということを繰り返していくことが重要です」と強調した。
2-2.PHRの活用可能性とユースケース
(1)PHR活用が想定されるサービス例
大野は、PHR活用が想定されるサービス例を整理したマッピング(図表3)を示し、高齢者の健康状態や介護度の変化に応じて、多様な主体がPHRを活用する可能性があると説明した。
公的サービスの領域では、要介護者を対象とした介護保険サービスや医療・介護連携に加え、要支援者などを対象とする地域支援事業が重要な役割を果たしている。また介護保険制度外でも、医療・介護事業者による自費サービスや民間企業による健康支援サービスなど、多様なサービスが提供されている。
さらに、高齢者の就業期間の長期化や人手不足を背景に、高齢者の就労継続や、働きながら親の介護を担う従業員に対する仕事と介護の両立支援も、重要な活用領域として挙げられた。
【図表3】PHR活用が想定されるサービス例

NTTデータ経営研究所が作成
(2)介護現場におけるPHR活用
遠藤氏は、介護事業経営者の立場から、要支援者や比較的軽度の要介護者に対して栄養ケアやリハビリテーションを継続的に提供し、介護度の進行を抑制することの重要性を指摘した。
その上で、PHRには二つの重要な役割があると述べた。一つは利用者の状態や変化を把握しやすくする「見える化」、もう一つは取り組みを継続するための「動機づけ」である。遠藤氏は「栄養ケアマネジメントやリハビリテーションでは、本人、家族、介護職員がやってみようと思える動機づけと、途中で離脱せず続けるための動機づけの双方が重要です」と説明した。特に継続のための動機づけには、変化や改善の「見える化」が有効であるという。
また、介護保険外サービスの一例として「栄養相談」を挙げた。同サービスでは、管理栄養士が独居高齢者の自宅を訪問し、栄養状態に加えて、食事形態や調理環境、買い物の状況などの生活実態を把握した上で栄養ケアの助言を行う。このような支援においても、利用者のデータを活用した「見える化」と「動機づけ」が重要であると述べた。
(3)地域包括ケアにおけるPHR活用
- 高齢者本人・家族・専門職それぞれにとっての価値
都築氏は、地域包括ケアにおけるPHRの価値を「高齢者本人」「家族」「医療・福祉専門職」の3つの視点から説明した。
高齢者本人にとっては、自身の健康状態や生活状況を継続的に把握することで、状態変化への気付きや適切な受診・相談の判断につながる点に価値があるという。
家族にとっては、離れて暮らす高齢者の健康状態や介護リスクの予兆を早期に把握し、重症化する前に対応できる点が重要である。
医療・福祉専門職にとっては、限られた面談時間だけでは把握しきれない日常生活の状況や変化の傾向を継続的に確認できるため、状態の改善や悪化の予兆を捉えやすくなると述べた。
- 「その人らしい暮らし」を支える自立支援への活用
都築氏は、市町村が実施する介護予防・日常生活支援総合事業の「短期集中予防サービス」を例に、自立支援の考え方を説明した。同事業では、理学療法士などの専門職が一定期間利用者に関わり、「その人らしい暮らし」を取り戻すための支援を行う。都築氏は「機械に頼らず、自分らしい暮らしによって身体活動を維持することが重要」と述べ、喫茶店への外出や友人との交流など、本人がこれまで送っていた生活や社会参加を再び実現することを重視していると説明した。
一方、本人の意欲や不安、家族の心配などを踏まえた丁寧なアセスメントや合意形成が必要となる。そこでリハビリ専門職が初期段階から関わり、過去の生活状況や現在の状態を評価しながら、本人や家族とともに目標設定を行うという。
その上で都築氏は「PHRによって外出頻度や生活機能の変化などの日常データを継続的に取得できれば、情報取得の効率化や迅速な判断が可能になる」と強調した。また、栄養士や訪問看護師、地域包括支援センター職員などとの情報共有の負担軽減にもつながるとして、「PHRデータの共有には大きな可能性がある」と述べた。
- 民間企業による健康支援サービスへの展開
都築氏は、医療機関外でリハビリ専門職や民間事業者が健康支援サービスを提供する場合には、医師法に抵触しないよう注意する必要があると述べた。
非専門職や一般市民が医学的な判断や診断に近い行為を行うことは医師法に抵触するリスクがあるため、PHRに蓄積された情報を基に利用者の状態を評価する際には、「判断」と「助言」の境界を慎重に見極める必要があるという。
(4)就労継続と両立支援におけるPHR活用
- 高齢労働者の安全管理
亀田氏は、高齢労働者の安全管理におけるPHRの活用可能性について、「高齢になると転倒や熱中症のリスクが高まるため、PHRを活用して健康状態を把握できれば、その人の状態に応じた働き方や就業上の配慮が可能になる」と説明した。
また、企業には70歳までの就業機会の確保が求められており、高齢者の就労期間が長期化する中で、健康リスクを踏まえた労務管理の重要性は今後さらに高まると指摘した。例えば、生活習慣病を有する労働者は酷暑日の屋外作業による健康被害のリスクが高いため、PHRを通じてリスクを把握できれば、企業が勤務シフトや業務内容を調整し、高温環境での作業を回避するといった予防的な対応につなげることができるという。
- 仕事と介護の両立支援
亀田氏は、働きながら介護を担う従業員への支援という観点からもPHRの有用性に言及した。50代後半では約8%の従業員が介護を担いながら就労しているとし、親の健康状態や生活状況をPHRで事前に把握できれば、介護が必要になった際の早期対応につながると述べた。
また、多くの人は介護に直面するまで、かかりつけ医や地域包括支援センター、介護認定制度などに関する知識を十分に持っていないと指摘した。そのため、PHRデータに加え、必要な支援や制度に関する情報を得る機会があれば、介護が必要になった際の迅速な対応につながると述べた。さらに、管理職や人事担当者がPHRデータを適切に理解・活用するリテラシーを習得することで、従業員への適切なケアの実現や離職防止にもつながる可能性があるとした。
(5)PHR活用に向けて地域・社会に求められること
- 高齢者の主体性を引き出す環境整備
松本氏は、高齢者自身の主体性をどのように引き出すかが重要な論点であると指摘した。高齢者を守るべき対象や施しの対象として捉えるのではなく、高齢者自身が介護予防や健康維持の主体であり、自らの意思で健康づくりや介護予防に取り組める環境を整えることが重要であるという。その上で、高齢者が自身の健康や生活の維持に積極的に投資することが当たり前となる社会の実現、および市場の拡大が重要であると強調した。
- 地域特性を考慮したサービス設計
松本氏は、地域の事情も考慮すべき重要な要素として挙げた。「大都市部と中山間・離島・人口減少地域では状況が全く異なります。都市部ではさまざまな選択肢があるため、介護保険や公的サービスに依存しがちになる。一方、僻地では移動が難しく、通いの場が成立しにくい地域もあります。こうした地域差をデジタルでどう乗り越えていくかが論点です」と述べ、地域特性を踏まえたサービス設計の必要性を強調した。
2-3.社会実装に向けた課題と促進要因
(1)介護記録ソフトとのAPI連携
遠藤氏は、介護事業者がPHRサービスを導入する際の判断基準について、「一番のポイントは、利用者である高齢者の自立支援や介護予防に活用できるかどうかです。もう一つは、介護記録との連携です。多くの事業者がまだ紙ベースで記録していますが、音声入力などのデジタル化も進みつつあります」と説明した。
特に、PHRアプリと介護記録ソフトとのAPI連携の重要性が強調された。利用者のバイタルデータやリハビリテーションにおける状態変化が介護記録と連動することで、データ活用の幅が大きく広がるという。
(2)高齢者本人の人生設計を支える「健康のナビゲーション」
都築氏は、PHRの価値について、自身の健康状態と人生設計を結び付けて考えられる点が重要であると述べた。「PHRは、自分の状態を把握するための『カーナビ』のようなもの」と表現し、健康状態や疾病に関するデータを継続的に確認できることで、自分が望む生活や将来の計画を実現できる状態にあるのかを判断しやすくなるという。
例えば、がん患者であれば検査データや健康状態の推移を踏まえながら、家族の行事や将来の予定を見据えた生活設計を行うことができる。同様に、健康とフレイルの間を行き来する高齢者にとっても、自身の状態を把握しながら健康管理や生活の選択を行えることが大きな価値になると述べた。
(3)情報共有・開示の合意形成
都築氏は、導入時の課題として、情報共有範囲に関する高齢者本人との合意形成の難しさに言及した。「デジタル・ディバイドの問題もあり、得られた情報をどの範囲まで共有するかについて、利用開始の段階で本人が十分にイメージすることは難しいです」と述べた。
本人の状態や意向の変化に応じて、その都度丁寧に説明しながら合意形成を進めていく必要がある一方、時間や人的コストを誰が負担するのかが課題であるという。
亀田氏は、職場でのPHR活用について、「従業員側が、プライバシーやハラスメントの観点から健康情報の開示に抵抗感を抱く傾向があります。これは現代的なムードとして大きなハードルになっています」と指摘した。
その解決策として、PHRサービス自体にヘルスリテラシー向上の機能を組み込むことで、利用者が健康情報を活用する目的や意義を理解できるようにすることが有効であると提案された。
(4)費用負担者の明確化
松本氏は、社会実装における最も重要な課題として費用負担の問題を挙げた。支払者となる企業や行政が費用を負担する合理性を見出せるかが重要であるという。
医療機関や介護事業所は公定価格の下で運営されているため、サービス導入にかかる費用を利用者へ転嫁することが難しく、導入コストを自ら負担しなければならないという難しさがある。また、行政も限られた財源の中で、健康意識が高い層よりも、一時的に意欲や心身機能が低下している層への支援を優先したいと考えている。そのため、行政向けサービスについては、行政が支援したい対象層とサービスのターゲットが一致しているかが重要な論点になると説明した。
(5)民間市場の可能性
一方、松本氏は民間企業の可能性について、「可能性があるのは民間企業です。価格転嫁ができ、ユーザーに利用価値が伝わってお金を払ってもよいと思ってもらえれば、市場として拡大する可能性があります」と述べた。
医療機関や介護事業所については、「例えば介護人材や医療人材の時間外勤務が減る、採用コストが減るなど、経費削減につながる明らかなメリットがないと導入は難しい」と現実的な見解を示した。
おわりに—パネルディスカッションから得られた3つの示唆
(1)高齢者本人への提供価値=「自分らしい生活」の実現
高齢者には、「住み慣れた地域で暮らし続けたい」「自分の状態に合わせて働きたい」「自分らしい生活を維持したい」といったニーズがある。
パネルディスカッション内では、高齢者にとってのPHRは、自身の健康状態と人生設計を結び付けて考えるための「健康のナビゲーション」であるとの例えが示された。健康とフレイルの間を行き来する高齢者にとって、自身の状態がPHRによって「見える化」され、主体的に健康管理や生活の選択を行えることは、大きな価値となる。
PHRには、単に健康データを管理するツールではなく、高齢者本人が実現したい暮らしに向けて、本人の生活目標や就労・社会参加を支えるサービスとしての価値が期待される。
(2)家族への提供価値=不安低減と早期対応の実現
パネルディスカッションでは、離れて暮らす家族がPHRを活用することで、高齢者の健康状態や介護リスクの予兆を早期に把握し、重症化や要介護状態に至る前に受診や支援につなげられる可能性が示された。
さらに、働きながら親の介護を担う家族にとっては、親の状態や必要な支援に関する情報を事前に把握できることで、介護が必要になった際の迅速な対応や仕事との両立にも役立つことが期待される。
PHRには、高齢者本人だけでなく、その家族の不安軽減や早期対応を支える価値も期待される。
(3)専門職への提供価値=業務負担軽減
PHRサービスが現場で導入・活用されるためには、高齢者本人や家族への価値だけでなく、現場の専門職の業務負担軽減につながることが重要である。
パネルディスカッションでは、地域包括ケアの現場において、利用者の日常生活の状況や状態変化を継続的に把握できるようになることで、栄養士や訪問看護師、地域包括支援センター職員など、多職種間の情報共有を効率化できる可能性が示された。
さらに、介護現場におけるPHRアプリと介護記録ソフトとの連携の重要性も挙げられた。利用者のバイタルデータや状態変化を既存システムと連動できれば、入力や確認の手間を削減しながらデータ活用を進めることができる。
医療・介護現場における人手不足が進む中、PHRサービスには専門職の情報収集・共有業務を効率化し、限られた人員で継続的な支援を実現する基盤としての役割が期待される。
本事業では、2027年3月まで、高齢者ウェルビーイングサービスにおけるPHR活用のユースケース創出とビジネスモデルの検証を実施する。PHRは高齢者ウェルビーイングの実現を支える重要な基盤となり得る。今後の検証を通じて、その活用可能性や社会実装に向けた知見を蓄積していく。

