はじめに
睡眠への社会的関心が、かつてなく高まっている。2024年に開始された厚生労働省による「健康日本21(第三次)」1では睡眠に関する具体的な目標値が設定され、睡眠計測デバイスやアプリなどのスリープテック市場も拡大を続けている。
本年、筑波大学の柳沢 正史教授が睡眠の分野で米ラスカー賞を受賞したことは記憶に新しいだろう。睡眠はもはや「個人の生活習慣の問題」にとどまらず、国家や企業が取り組むべき社会課題として位置づけられつつあるのだ。
当社は2025年度に国立大学法人から世界の睡眠領域に関する動向調査を受託した。本稿では調査を通じて得た知見を基に、睡眠領域における世界のトレンドと、そこから得られる日本への示唆について考察する。
1 厚生労働省「健康日本21(第三次)」
1. 日本人が抱える睡眠の課題
まず、日本人がどれほど眠れていないのかを確認したい。
2024年度の厚生労働白書に記載されている睡眠時間の国際比較を見ると、日本人の平均睡眠時間は諸外国の中で最低水準にあり、韓国とともに短い2(図表1)。長時間労働や通勤時間の長さといった社会構造が、大人の睡眠時間を圧迫し続けているとみられる。
【図表 1】 睡眠時間の国際比較

(出典)
厚生労働省「令和6年版 厚生労働白書」(P26、図表1-1-23)
深刻なのは大人だけではない。当社の調査では、平日に適正な睡眠時間(厚生労働省「健康づくりのための睡眠ガイド2023」3等が示す年代別推奨時間)が確保できていないこどもの割合は、小学生で88%(約528万人)、中学生で80%(約256万人)、高校生で93%(約279万人)にのぼると推計された。米国、オーストラリア、シンガポールとの比較4においても日本の割合は際立って高く、合計すると約1,000万人の小・中・高校生が適正な睡眠を確保できていない計算になる(図表2)。
【図表 2】 適正な睡眠時間を取れていないこどもの国際比較

参考を基にNTTデータ経営研究所が作成
(参考)
- CDC「Short Sleep Duration Among Infants, Children, and Adolescents Aged 4 Months–17 Years — United States, 2016–2018」
- CDC「Short Sleep Duration Among Middle School and High School Students — United States, 2015」
- LSAC Annual Statistical Report 2018「LSAC Annual Statistical Report 2018 Chapter 4 Are children and adolescents getting enough sleep?」
- Koa TB, Seah JX, Ong JQW, Lo JC. Short Sleep Duration in School-Age Children: Differential Factors on Weekdays and Weekends. Behav Sleep Med. 2023 Nov 2;21(6):774-786. doi: 10.1080/15402002.2022.2164001
- National University of Singapore「Hitting the sweet spot: a solution for inadequate adolescent sleep」
さらに、睡眠は「量」だけの問題ではない。睡眠時無呼吸症候群(SAS)に代表される睡眠障害が、診断・治療に至らないまま潜在化している5(図表3)。日本の睡眠課題は、大人とこども、そして量と質の両面にわたって存在しているのだ。
【図表 3】 睡眠時無呼吸症候群の治療状況

2 厚生労働省「令和6年版 厚生労働白書」
3 厚生労働省「健康づくりのための睡眠ガイド2023」(令和6年2月)
4 CDC「Short Sleep Duration Among Infants, Children, and Adolescents Aged 4 Months–17 Years — United States, 2016–2018」、CDC「Short Sleep Duration Among Middle School and High School Students — United States, 2015」、LSAC Annual Statistical Report 2018 「LSAC Annual Statistical Report 2018 Chapter 4 Are children and adolescents getting enough sleep?」、Koa TB, Seah JX, Ong JQW, Lo JC. Short Sleep Duration in School-Age Children: Differential Factors on Weekdays and Weekends. Behav Sleep Med. 2023 Nov 2;21(6):774-786. doi: 10.1080/15402002.2022.2164001、National University of Singapore「Hitting the sweet spot: a solution for inadequate adolescent sleep」
5 厚生労働省 第7回 医道審議会医道分科会診療科名標榜部会 「『睡眠障害』の標榜実現に向けて」(令和8年1月15日) P.4より中等度のSAS患者数は944万人。厚生労働省: e-Stat, 社会医療診療行為別統計(旧: 社会医療診療行為別調査) / 社会医療診療行為別統計/令和6年社会医療診療行為別統計/診療行為の状況/医科診療/年次/第18表/C列2764行より、SASの治療を行っているのは88万人
2. 睡眠不足が健康にもたらす影響
「たかが寝不足」―睡眠不足は、しばしばそう軽く受け止められる。しかし近年の研究は、睡眠不足が身体の一部をむしばむのではなく、全身に影響を及ぼすことを明らかにしている。
米国CDC(疾病予防管理センター)は成人に1日7時間以上の睡眠を推奨6しており、それを下回る睡眠は肥満、糖尿病、高血圧、心疾患、脳卒中のリスク増加と関連するとしている。厚生労働省「健康づくりのための睡眠ガイド2023」も、睡眠不足が高血圧の発症や悪化に関連することを明記している7。そのメカニズムの解明も進んでおり、自律神経の乱れによる血圧上昇、食欲関連ホルモンの変化を通じた過食や肥満などが指摘されている。
影響は身体にとどまらない。不眠はうつ病の発症に先行する因子として知られ、脳が睡眠中に老廃物を排出する機能との関係から、認知症リスクとの関連も報告されている。免疫機能の低下を通じた感染症やがんへの影響を含めれば、その射程は全身に及ぶとみられる。
こうした影響の大きさを示すものとして、米国では睡眠不足が死因上位15のうち7つに関連しているとの指摘がある8。
6 CDC「About sleep」
7 脚注3参照
8 RAND研究所「Why Sleep Matters—The Economic Costs of Insufficient Sleep」(2017)
3. 諸外国における睡眠改善の取り組みと特徴
1・2章で見たように日本では睡眠時間の不足や睡眠の質の問題が存在している。一方、調査から見えてきた諸外国の特徴は、「睡眠時間を増やすための施策」を行っているわけではないという点である。諸外国では、自国が抱える健康・社会課題の解決手段として睡眠を位置づけ、明確なターゲットを定めたうえで介入を実装している。ここでは、ドイツ、アイルランド、シンガポールの3ヵ国を取り上げたい。
ドイツ ― メンタルヘルス不調への対策として
ドイツが睡眠に着目することになったきっかけは、労働者のメンタルヘルス不調である。その契機のひとつとなったのは、大手公的疾病保険者による調査・公表である。保険者が加入者データを基に、睡眠障害を抱える労働者が増加トレンドにあること、そしてその多くが医療機関を受診しないまま放置されている実態を明らかにし、睡眠問題を「見えない健康リスク」として社会に提起した9。
対応策として特徴的なのが、不眠に対する認知行動療法(CBT-I)を提供するデジタル治療アプリ(DTx)の処方である。ドイツでは医師が処方したデジタルヘルスアプリが公的医療保険で償還される制度が整備されており、睡眠障害に対しても、薬物療法に依存しない治療選択肢へのアクセスが制度的に保障されている。「受診しない睡眠障害者」という課題に対し、アプリという受診ハードルの低い入口を保険診療の枠内に用意した点が、ドイツにおけるアプローチの特色である。
アイルランド ― 肥満対策として
アイルランドが見据えるのは、成人の肥満問題である。肥満に紐づく医療費が国家財政を圧迫しており、肥満対策は同国の健康政策における最優先課題のひとつとなっている。ここで睡眠が登場する根拠となっているのが、睡眠不足が食欲をつかさどるホルモンのバランスを乱し、過食や肥満のリスクを高めるという科学的知見である。つまりアイルランドにとって睡眠改善は、それ自体が目的なのではなく、肥満という社会的課題に対する予防的な介入手段なのだ。
実装面では、国民健康増進の包括的枠組みである「Healthy Ireland」の中で展開されている「Healthy Weight」に睡眠が組み込まれ、肥満対策の一環として睡眠の重要性の普及啓発が展開されている(図表4)。
【図表 4】 Healthy Weightで言及されている主要要素10

(出典)
Government of Ireland「Healthy Weight」
睡眠を、独立した政策として掲げるのではなく、既存の健康増進プログラムの中に位置づけることで、財源と実施体制を確保しながら国民への浸透を図るアプローチを取っている。
シンガポール ― 糖尿病対策として
シンガポールにおけるきっかけは、糖尿病である。同国は国を挙げて糖尿病対策に注力しているが、睡眠不足が将来の肥満・糖尿病リスクを高めるという研究成果に対し、政府が着目した。特徴的なのは、若年期の睡眠に焦点を当てている点である。小児期の睡眠不足が肥満を介して将来の糖尿病リスクにつながる、すなわち「現在のこどもの睡眠」が「将来の医療費」を左右するという長期的な因果を見据えて、こどもの睡眠習慣づくりに投資している。
その根拠となるエビデンスも自国で構築している。シンガポールのこどもを対象とした研究では、1週間を通じて毎日9時間以上眠っていた男子は、睡眠不足の男子に比べて肥満リスクが51%低いことが示され、政府がこの結果に着目した11。実装面では、「Nurture SG」「Grow Well SG」といったこどもの健康増進指針の中に睡眠の重要性が明示され、親・学校・地域が睡眠の重要性を認知できる仕組みとしている。学校健診の結果と合わせて、こども一人ひとりに個別の生活習慣の処方が示される。保護者はそれを健康情報サイトやアプリ上で確認し、睡眠習慣に関する具体的な助言を受け取ることができる、という具合である12。
3ヵ国におけるこの課題への入口は、メンタルヘルス、肥満、糖尿病とそれぞれ異なる。しかし、いずれも「睡眠改善によって何を解決するのか」というターゲットが明確に定まっており、そのターゲットに応じて介入手段(保険償還されるDTx、既存の健康増進枠組みへの組み込み、こどもの生活接点での啓発)を選んでいる点で共通している。そして近年、こうしたターゲット型の介入からさらに一歩進んだ、新たな潮流が生まれつつある。睡眠改善のみを目指すのではなく、生活全体を捉えるという発想である。
9 ドイツの公的医療保険団体(DAK)による2017年の報告書「Gesundheitsreport 2017」
10 Ireland Ministry of Health「Healthy Weight」
11 シンガポール政府プレスセンター「GETTING AT LEAST NINE HOURS OF SLEEP HALVES OBESITY RISK IN BOYS, A*STAR STUDY REVEALS」(2025年10月27日)
12 Singapore Ministry of Health「GROW WELL SG TO SUPPORT FAMILIES IN BUILDING HEALTHY HABITS IN CHILDREN」
4. 睡眠政策の新たな潮流 ― 24-hour movement
その潮流を象徴するのが、「24-hour movement」という考え方である。
「睡眠:「身体活動」「座位行動(スクリーンタイムを含む)」は、限られた24時間を互いに奪い合うトレードオフの関係にある。夜更かしをしてスマートフォンを見れば睡眠が削られ、座位時間が長くなれば身体活動が減る。
したがって、睡眠・運動・座位のいずれか1つだけを個別に改善しようとするのではなく、24時間の時間配分全体を最適化することが健康アウトカムの改善につながる―これが「24 hour movement」の基本的な考え方である。
この考え方が生まれた背景には、カナダにおける「失敗」の経験がある。カナダではかつて、運動ガイドラインと睡眠ガイドラインがそれぞれ独立して存在していた。しかし、運動を推奨した結果、そのために睡眠時間が削られてしまう、あるいは運動はしていても、それ以外の時間は座りっぱなしで過ごしてしまう。こうした場合には健康効果が相殺され得ることが問題視され、睡眠、身体活動、座位行動の相互の影響を踏まえて生活全体を整えることが重要である、という公衆衛生上の課題認識が生まれた13。
この認識のもと、カナダ運動生理学会が主導し、世界中の関連論文を対象とした大規模なシステマティックレビューを実施した。個別の行動ではなく1日全体の行動構成を対象とすべきというエビデンスに基づき、2016年、カナダは運動・睡眠・座位行動を統合した世界初の「24-Hour Movement Guidelines」を策定するに至った(図表5)。「睡眠だけを改善しよう」ではなく「日中動かないと良い睡眠はとれない」という生理学的メカニズムを政策メッセージに組み込んだのだ14。
【図表 5】 カナダによる24 hour movement Guidelines

(出典)
Canadian Society for Exercise Physiology「24-hour movement Guidelines」
この考え方は各国へ広がりつつある。オーストラリアは、カナダの取り組みに触発される形で2017年に年代別の「24-hour movement guidelines」を発表し、こどもの年齢別推奨睡眠時間の提示や就寝前にPCやスマートフォンのスクリーンを見ないことの推奨など、睡眠を身体活動・座位行動と一体で捉えた生活行動全体への介入を設計している15(図表6)。
【図表 6】 オーストラリアによる24-hour movement Guidelines

(出典)
Australian Government Department of Health, Disability and Ageing「24-hour movement guidelines – birth to 5 years - brochure」
デンマークも、カナダなどの24時間の生活サイクルの考え方を受けて、国民健康調査において加速度計を用いた睡眠・身体活動・座位行動時間のモニタリング調査17を実施しており、「24 hour movement」は国際標準となりつつある。
13 Canadian Science Publishing「Introduction to the Canadian 24-Hour Movement Guidelines for Children and Youth: An Integration of Physical Activity, Sedentary Behaviour, and Sleep」
14 Canadian Society for Exercise Physiology「24-hour movement Guidelines」
15 Australian Government Department of Health, Disability and Ageing「24-hour movement guidelines – birth to 5 years - brochure」
16 デンマーク国立公衆衛生研究所「Fysisk aktivitet, stillesiddende adfærd og søvn(身体活動、座位行動および睡眠)」
5. 日本の睡眠改善に向けた取り組みと課題
このような潮流に対して、日本の現状はどうであろうか。「健康日本21(第三次)」は睡眠を独立した領域として扱い、睡眠時間と休養感について具体的な目標値を設定している。2003年に策定された「健康づくりのための睡眠指針」は2014年の改定を経て、「健康づくりのための睡眠ガイド2023」として全面的に刷新され、年代別の推奨睡眠時間が示された。企業に対しても、健康経営度調査を通じて睡眠に関する取り組みが問われている。普及月間や関連団体による啓発活動も、毎年実施されている。
つまり日本には目標値があり、科学的根拠に基づくガイドがあり、企業への働きかけがあり、国民への啓発がある。政策の手段としては、必要なものがおおむね揃っているといってよい。
しかし、それらが結果に結びついていないことが懸念される。指針が改定され、目標値が設定され、啓発が繰り返されてもなお、第1章で見たとおり、日本人の睡眠時間はOECD加盟国の中で最低水準にあり、こどもに至っては約1,000万人が適正な睡眠を確保できていない。これは施策の不足ではなく、現在の施策が十分な成果に結びついていない可能性を示唆している。
では、なぜ成果につながっていないのか。筆者らは3つの要因があると考える。
第一に、ターゲットが定まっていないことである。前章で見たドイツ・アイルランド・シンガポールは、いずれも「睡眠を改善して何を解決するのか」を明確に定めたうえで施策を組み立てていた。一方、日本の睡眠施策は睡眠そのものの改善を目的としており、解決すべき課題が特定されていない。目的が特定されなければ、予算の根拠も、効果の測定軸も、責任を負う主体も定まらない。
第二に、指針が領域ごとに分かれているためである。睡眠ガイド、身体活動・運動ガイド、食事摂取基準は、それぞれ別個に策定され、別個に周知されている。しかし1日24時間という時間のなかで、睡眠を増やすには何かを減らすほかない。個別に「増やせ」と言い続ける限り、受け手はどれを削ればよいのかを判断できない。その結果、実際に削られるのは、多くの場合、本人の裁量で最も調整しやすい睡眠である。健康のための推奨が、かえって睡眠を圧迫する。カナダが直面したのと同じ問題である。
第三に、実行を個人の意志に委ねている点である。睡眠時間を規定しているのは労働時間、通勤時間、学校の始業時刻といった社会構造であり、個人が選択できる余地は限られている。にもかかわらず、日本の施策の中心は情報提供と啓発、すなわち個人の行動変容への期待にとどまっている。構造に手をつけない啓発であるため、すでに関心のある層にしか施策が届いていないのである。
以上を踏まえ、筆者らは、睡眠・身体活動・座位行動を統合した枠組みが、日本においても検討に値すると考える。具体的には、国の指針、企業の健康施策、事業者が提供するサービスのいずれにおいても、24時間の使い方を前提として設計し直すことである。
重要なのは、既存の睡眠ガイドと身体活動ガイドを並べて綴じ直すことではない。何を減らすのかを示さなければ、健康改善にはつながらない。睡眠を増やすよう呼びかけるのであれば、その時間をどこから捻出するのかまで含めて設計する必要がある。それは国の指針という形をとることもあれば、職場の制度や、個人に向けたサービスの設計に組み込まれることもある。
ただし、24時間の使い方を前提に設計し直すべきだと言うことはできても、それを担う主体は、いまのところどこにも定まっていない。そこで次章では、その担い手について考えたい。
6. 24時間の時間の使い方をどのように設計するか
前章で見たとおり、24時間の使い方は個人の意志だけでなく社会構造にも大きく左右される。時間の多くを占めているのは、労働時間を設計する企業や、始業時刻を設計する学校である。しかし、いずれも自らが占める時間帯を決めているにすぎず、24時間全体を見て配分を設計する主体は、存在していない。
また、国の指針が領域ごとに分かれているように、職場に持ち込まれる健康施策もテーマごとに分断されている。一方、その24時間を連続的に計測できるのは、ウェアラブルデバイスやアプリを提供する測定事業者であり、彼らもまた睡眠、運動など個別のテーマでソリューションを提供している。そして健康改善による便益、すなわち医療費の抑制による便益を受け取るのは、本人を除けば保険者と国である。
このように、「24時間を規定する主体」「計測する主体」「便益を受け取る主体」が、それぞれ別々に存在し、互いに接続されていない点に課題がある。規定する側は、自らが24時間のどれだけを占めているかを把握できず、計測する側は構造を動かす力を持たず、便益を受ける側は費用を負担していない。24時間の時間の使い方を前提に制度・施策を設計するとは、この三者を接続する設計を行うことになる。では、今後何と何を接続すべきなのか。
睡眠関連事業者と運動、食事等事業者
国の指針が睡眠・身体活動・食事に分かれているように、それを担うサービスもまた、睡眠は睡眠事業者が、運動は運動事業者が、別々に提供されている。
睡眠を計測する事業者は、睡眠の状態を精緻に可視化できる。だが、その改善手段の多くは日中の行動――身体活動量、光を浴びるタイミング、座位時間、カフェインや食事の時刻――の側にある。日中に働きかける手段を持たないまま睡眠だけを測り続ける限り、「測って終わる」構造から抜け出すことは難しい。
一方、運動サービスを提供する事業者にとって、利用者の睡眠は成果を左右する前提条件である。睡眠が不足した状態では運動のパフォーマンスも回復も低下し、成果が出にくいことが継続率の低下につながる。運動の効果は、運動の外側の時間にも左右される。
つまり両者は、24時間という同一の資源を異なる角度から扱う事業であり、どちらも単独では利用者の成果を完結させられない。カナダにおける失敗経験が示したのは、個別最適の介入が互いの効果を相殺しうるということであった。この教訓は、国の政策だけでなく、個人に向けたサービスの設計にもそのまま当てはまる。睡眠事業者と運動事業者は、競合であるより先に、互いの成果条件を提供し合う関係にあるからだ。
受益者と費用負担者
もうひとつは、便益を受ける主体が費用を負担していない構造である。睡眠計測デバイスも、運動サービスも、その費用を負担しているのは主として個人であり、福利厚生として導入する企業である。
一方、24時間の使い方の改善がもたらす財務的な便益は、直接生じるものではない。睡眠や身体活動の改善が生活習慣病や精神疾患の発症を抑え、その結果として医療費が減少するという段階を経て、はじめて保険者や国、そして保険料を負担する企業に及ぶ。負担する主体と受け取る主体が、制度的に接続されていない。
前章で見た各国は、この接続を持っていた。ただしそれは、メンタルヘルス、肥満、糖尿病というターゲットを絞り、その解決に対して支払う仕組みを作ったからである。24時間の使い方という枠組みには、まだそれに相当するものがない。
実現に向けた論点
ここまで述べた、事業者間の接続や受益者と費用負担者の接続を実現するためには、3つの論点を解く必要がある。
第一に、エビデンスの構築である。24時間の使い方を前提に設計するといっても、では何時間をどのように配分するのが望ましいのか。カナダでは学会が学術的な主導権を握り、大規模なシステマティックレビューを経てガイドラインが策定された。日本には、睡眠・身体活動・座位行動を横断してこの役割を担う主体が明確に存在しない。学会か、行政か、あるいは実際に膨大な生活行動データを保有する事業者か、今後の整理が必要である。
第二に、睡眠のデータと運動のデータの接続である。睡眠・身体活動・座位行動をあわせて24時間として捉えるには、これらのデータが個人単位で統合される必要がある。しかし現状、これらは異なる事業者の異なるアプリの中に分断されて存在している。相互運用の標準を誰が、どのような合意のもとで整備するのか。技術の問題であると同時に、事業者間の協調が必要である。
第三に、24時間の改善を、誰の、いくらの便益として評価するのか。ターゲットを絞れば、支払者は特定できる。しかし24時間の使い方そのものを対象とするなら、何をもって改善とみなすのかを定義しなければならない。医療費の削減か、労働生産性の向上か、こどもの学習成果か。便益を最も直接に受け取るのは保険者だが、その効果を検証する枠組みはまだない。評価軸と定量手法が定まり、効果が示されない限り、費用負担者は現れない。
これら3つの論点は、いずれも単独の主体では解決できず、複数の主体による協調が必要である。エビデンスの構築は行政と学術機関、データ相互運用は事業者間、便益評価は保険者・企業・研究機関の協調を必要とする。24時間の時間の使い方を前提とした政策・サービスが日本に根づくかどうかは、この協調を組成できるかにかかっている。
おわりに
本稿では、諸外国の睡眠政策の調査から見えてきた2つのアプローチ――課題解決の手段として睡眠に介入するターゲット型のアプローチと、睡眠を単独で扱わず24時間の時間の使い方として捉える統合型のアプローチ――を紹介し、日本に求められる方向性として、24時間の生活全体を支援する仕組みへの転換と、それ実現するための課題を示した。
睡眠は、個人の健康、企業の生産性、国の医療費が交わる場所にある。しかし本稿で見てきたとおり、その交点を設計できる主体は、いまのところ存在しない。国は指針を示し、企業と学校は生活時間の一部を占め、事業者は計測する。いずれも24時間の一部にしか関与しておらず、全体を見て設計する立場にある者がいないからである。
必要なのは、24時間を一つの単位として捉える共通の物差しである。推奨される時間配分、その変化を測る指標、そして改善がもたらす便益の評価。これらが揃ってはじめて、国も企業も事業者も、同じ対象について議論できるようになる。そのため、今後当社では、その物差しづくりを、関心を同じくする方々とともに進めていきたいと考えている。

