はじめに
近年、医療業界では「ペイシェントセントリシティ(Patient Centricity、患者中心)」という考え方を重要視すべきだという機運が高まっている。製薬企業もまた、同様の考え方を取り入れた変革を求められている企業の一つだ。
従来、製薬企業は医療機関と医師を中心としたビジネスモデルであった。しかし、超高齢社会の到来とともに医療環境が急速に変化する現在、患者との接点を拡大し、より持続的かつ利益を生み出すための変革が急務である。事実、当社では、医薬品開発に関連する企業・官公庁から、患者を中心としたビジネスモデルの立案と導入支援に関する相談が増加傾向にある。
本レポートでは、製薬企業を取り巻く環境の変化と課題を明らかにするとともに、ペイシェントセントリシティの観点から求められる製薬企業の役割を考察する。
1. 製薬企業の活動と課題について
製薬企業のマーケティング活動は従来、KOL 1(キーオピニオンリーダー)となる大学病院や地域基幹病院の医師と関係構築を行うこと、それ以外の医師に対しては全国各地に配置された医薬情報担当者(MR)が情報提供活動を通して処方を依頼するということが中心であった。生活習慣病などの慢心疾患治療薬は同種同効薬が多く、差別化が困難であるため、自社製品の市場シェア拡大には処方医のマインドシェア獲得が重要であったためである。特定疾患においては、全国や地域の処方に大きな影響力を持つKOLに対し、積極的に関係構築を行い、自社製品をPRする講演会などのイベントを日常的に開催していた。また、MR活動として、各病院で開催される医局製品説明会などで製品の認知を向上させ、市場シェアを高める取り組みに注力していた。
しかし、この一連の活動では、実際に服薬する患者に対する配慮がほぼなされていない。生活習慣病領域においては、自己判断で服薬を中止、通院をやめる患者が存在するため、投薬機会の漏れが発生する。希少疾患などターゲット患者が少ない疾患領域では、患者に知識が無いために受診が遅れ、専門医にたどり着くまでさらに期間を要することがある。医師に対する情報提供活動だけでは、適切に患者へ医薬品を届けることが難しい。薬を適切に届けられない、または服薬を継続できないことで、患者の疾患が悪化する事例の発生も懸念される。他方で、製薬企業にとっては、収益機会の損失する可能性がある。
1 本レポートでは「製薬企業の薬剤の販売促進に影響力を持つ医師などの専門家」と定義
2. 医療環境の変化について
超高齢社会の到来とともに、医療業界を取り巻く環境は急速に変化している。製薬企業が持続的に利益を生み出すための方策を検討するにあたって、現在起きている環境変化を述べる。
① 医療費抑制に向けた政策推進
製薬業界は規制産業であり、政策動向に大きな影響を受ける。日本では、医療費適正化というお題目のもと、製薬企業にとって逆風となる薬価 2 引き下げという政策が継続的に取られている。具体的には、2015年の閣議決定により後発品数量シェア目標が80%に引き上げられたり、2016年には予測年間販売額を上回った新薬に適用される市場拡大再算定 3 が新設されたりしている。また、2018年度薬価制度改革によって長期収載製品 4 を後発品薬価と同程度まで引き下げる、いわゆるG1ルール等が新設されるなど、長期収載製品に依存する割合が高い国内製薬企業の収益性に大きな影響を及ぼしている(図表1)。
2 保険医療に用いる医薬品の公定価格を指す
3 効能変更等が承認された既収載品及び2年度目以降の予想販売額が一定額を超える既収載品について、一定規模以上の市場拡大のあった場合、新薬収載の機会(年4回)を活用して、薬価を見直すこと
4 再審査期間が終了しており、既に特許も切れている、後発医薬品のある先発医薬品のこと
【図表1】医療費抑制に向けた政策推進
下記参考を基にNTTデータ経営研究所にて作成
【参考】
内閣府Webサイト「経済財政運営と改革の基本方針2015について 」(2015年6月30日)
厚生労働省Webサイト「平成28年度薬価制度改革について 」
厚生労働省Webサイト「平成30年度 薬価制度の抜本改革の概要 」
② 製薬R&Dポートフォリオの変化
かつて、製薬企業のR&D 5 ポートフォリオは患者数の多い高血圧、高脂血症、糖尿病などの生活習慣病治療薬であったが、2010年以降に相次いで大型製品の特許切れが生じた。このことから、現在ポートフォリオとして肥満症、糖尿病などの生活習慣病を対象とした治療薬も依然として存在するものの、オンコロジー 6 領域や希少疾患などのスペシャリティ領域へと変化している。
5 研究開発(Research & Development)
6 がんの診断と治療を専門とする医学の一分野のこと
③ 医師の働き方改革 ⁷
2024年度に改正医療法が適用され、これまで問題となってきた医師の長時間労働是正に向けた政策が導入されることとなった(図表2)。医師の時間外・休日労働に対して上限規制が設けられ、土曜日の外来診療中止や夜間診療に充当する医師を削減する病院の増加も見込まれる。製薬企業のMRは医師の隙間時間を狙って情報提供活動を実施していたが、今後は訪問・情報提供機会が大幅に減少するだろう。一方、疾患や新薬情報収集は、医師にとって欠かせない。医師はMRに頼らず、多様なチャネルを活用して効率的な情報収集を行っていくと考えられる。
なお、日経リサーチ 8 によると、コロナ禍において医師が製薬企業から情報を得る手段として「主にデジタルツールから」と回答する割合は2020年以前の21.9%から、2023年時点で71.0%に増えている。反対に「主にMRから」と回答する割合は2020年以前の51.9%から2023年時点で29.0%に減少している。コロナが5類に変更され対面による情報収集の割合も回復しつつあると予想されるが、働き方改革の影響も相まって、コロナ以前への回復は考えにくい。
7 「医師の働き方改革概要」, 厚生労働省ホームページ
8 日経リサーチReport『「医療情報はデジタルで」71% ~コロナ禍で「対面」から一気にシフト』(2023年4月24日)
【図表2】医師の働き方改革
出典:厚生労働省Webサイト「医師の働き方改革概要」
3. 今後求められる患者中心の活動
ここまで、製薬企業の従来の活動とともに、企業を取り巻く医療環境の変化を述べた。では、ペイシェントセントリシティ=患者中心のアプローチはどういったものが有用か。生活習慣病などの慢性疾患領域と希少疾患領域に分けて考察をしていく。
① 生活習慣病などの慢性疾患領域
潜在的な患者の掘り起こしと、服薬アドヒアランス 9 の向上が重要である。前者に関して、例えば、メタボリックシンドロームや生活習慣病の早期発見と治療を目的とした特定健診の受診率(全国平均)は57.8%であり、年々受診率は増加しているが、依然として40%以上が未受診である。これらの潜在的な患者を掘り起こすことで、長期的に自社製品の売上に貢献する可能性がある。後者に関して、糖尿病を例に挙げると、治療予後が悪化することで腎機能が低下し、慢性腎臓病や血液透析が必要となるため、医療費増加につながる。このような疾患においては、症状が軽い状態を維持するための服薬支援アプリやプログラムを導入することで、治療継続率向上が期待できる。また、ウェアラブルデバイスなどを活用し決められた時間に服薬を促す仕組みを構築することで、患者の予後を改善できる。収益機会の獲得と医療費適正化に貢献できると考えられる。
9 患者が積極的に治療に参加し、適切に薬を服用すること
② 希少疾患領域
他方、希少疾患は、その名の通り医薬品の対象患者数が少ないため、患者の早期発見・診断・治療に際して、囲い込むことがカギとなる。例えば早期発見診断には、自治体と協力してがん検診の受診率を高めるアプローチのように、患者が診断や治療に向かいやすい仕組み作りが重要である。またMRは、医師に対しても薬剤に関する情報提供だけでなく、自社が提供する患者支援プログラムなどについても情報提供をする必要がある。希少疾患の患者は、診断・治療が長引くことが多く、心理的支援が必要となる場合がある。患者支援プログラムに参加してもらうことで、服薬アドヒアランスの維持を図るのである。
上記のように、今後求められる患者を中心としたアプローチは、患者のペイシェントジャーニー 10 を意識して、患者自身が健康状態や疾患に対する興味・関心を高めることで、行動変容を促進する仕組みづくりだ。これにより、服用アドヒアランスの向上や潜在的な患者の掘り起こしに貢献することが期待できる。特に、自社の既存製品とシナジー効果を生み出すAround the pill 11 の視点から、自社の治療薬が最終的に検討されるようなペイシェントジャーニーを設計し、治療前から患者との接点を持つことが重要だ。病院での関係性を超えた患者中心の施策を実行することが、将来的な収益向上に寄与するのではないかと考えられる。
10 Patient Journey、患者が病気を自覚してから医療サービスによって治療、回復していく過程
11 薬の周辺にある支援サービスを提供し、患者の治療体験をサポートする概念
4. 新たな取り組みにつながる事例
最後に新たな取り組みにつながる事例の紹介をしたい。
なお、以下の取り組みは前記記載内容に該当すると推察される事例を当社がピックアップしたものであり、各社の戦略が、本レポート記載趣旨と合致しているかは不明である点に留意いただきたい。
事例1:自治体と製薬企業が連携し、ヘルスケア連携のハブとして地域の潜在患者の健康推進を目指した取り組み(2023年~)
現在高血圧症は、全国で1,850万の潜在患者が存在し、また、治療を受けているがコントロール不良の患者も1,250万人程度存在、合わせて4,000万人ほどが適切なコントロールを受けていない状況にある。
そもそも高血圧症は、普段の生活を送るうえで大きな支障がないため、患者は、健診などで受診勧奨を受けても通院しない、あるいは通院や服薬を自己判断で止めてしまう傾向が高い。その結果、脳卒中、心筋梗塞など重大な循環器系疾患を発症することとなる。
地域に多数存在する潜在患者を、適切な治療に向けるために、ノバルティス ファーマ株式会社/ペイシェントソリューションGは「プロジェクトTWFC」(Together We Fight CANCER & CVD)という、地域共創型のがんと循環器病の疾患啓発活動をリードし、広島県、広島市とマイライフ株式会社、もみじ銀行、広島国際大と連携して早期の健診啓発、受診勧奨に努めている(多様な主体との協働)。
具体的にはプロジェクト共創パートナーのマイライフ株式会社が運営しているオールカフェ×タニタカフェで食事をすると、隣接しているオールラボで、無料で健康測定ができ、常駐している管理栄養士に気軽に健康相談や生活アドバイス、健診情報提供を受けられる仕組みである。
2023年度には、「TWFC血圧測定チャレンジ」と称した血圧測定キャンペーンをマイライフ株式会社が主導で11月下旬から12月下旬にかけて実施し、インセンティブ付与などを行い、血圧測定を呼びかけ、来客者の38%が血圧を測定、測定者の約40%がスクリーニング基準値を上回ったことが把握された。
また啓発活動を進める際に活用できるよう、プロジェクトTWFCの特設サイトを開設するとともに、PR動画 を作成した。周知の活動として、株式会社もみじ銀行の各店舗でのPR動画の放映、広島学生大学の学生を対象としたワークショップの開催、広島カープのマツダスタジアムでの血圧測定イベントなども実施されている。これらの活動はデジタルマーケティングの新たな概念であるOMO(Online Merges with Offline)、リアルな店舗等(=オフライン)と、インターネットの世界(=オンライン)での集客を疾患啓発の文脈で試みた事例とも言える。このように多様な主体が共通のゴールに向かってそれぞれの事業接点をとおして住民への周知を図った結果、プロジェクトTWFCの特設サイトの閲覧数は約8万回(2024年6月末時点)、PR動画の視聴回数は約8.5万回(2024年6月末時点)を記録している。
製薬企業として、このように自治体連携の健康推進のプロジェクトに対して中立的にPMO 12 の立場で関わることで、血圧測定から健診センターや医療機関と連携した早期受診勧奨をする環境づくりを行うとともに、住民(潜在的患者)の行動変容に向けた仕組み作りの支援を担うこととなる。
このような新たな疾患啓発活動のモデル構築によって、潜在的な高血圧患者の行動変容を促すとともに、当該カフェなどの日常の場所が健康づくりの新たな拠点として認知され、住民の地域における健康行動変容を促進する効果が期待される。製薬企業が、地域包括ケアの中で疾患予防の文脈におけるヘルスケア連携のハブとして、新たな価値を提供できる事例である。
事例2:民間企業と提携し、自覚症状のない疾患の啓発、早期発見を目指した取り組み(2023年)
骨粗しょう症は発症しても自覚症状が少ないため、骨折が起きる前に診断することが難しい疾患である。推定有病患者数が1,280万人存在するといわれている一方で、治療を受けている患者は3割程度と報告されており、事前の受診率・診断率の低さが問題となっている。
骨粗しょう症の早期発見・治療のためには、患者が自らの意志で骨密度検査を行い、骨強度を把握することが重要となる。旭化成ファーマ株式会社は患者の行動変容に着目し、骨粗しょう症の早期発見・治療を促す目的でアプリを活用した疾患啓発活動を行った。
具体的には、メドピア株式会社の連結子会社であるMediplat社と共同で、ウォークラリープログラムを実施。歩数記録アプリ「スギサポwalk」のユーザーを対象に、潜在患者の受診行動変容を調査した。ウォークラリープログラムの参加者は、旭化成ファーマから骨粗しょう症の原因、症状、検査方法などの疾患情報を受け取ることによって、疾患への興味と理解を深めることができる。さらに、大手薬局・ドラッグストアチェーン スギ薬局で利用できるマイルが貯まるというリワードを設定し、インセンティブも働く設計とした。
結果として、ウォークラリープログラムには約34万人が参加した。アンケート回答者3割に該当する7.4万人の潜在患者において骨密度検査を受けるなどの受診行動変容が見られた。このように、早期発見が難しい疾患の診断率を高めるためには、積極的な受診や検査など、患者の能動的な行動が必要となる。アプリを利用して潜在患者に行動変容の機会を提供することで、市場の掘り起こしにつながった事例である。
終わりに
以上のように、製薬企業は外部環境の変化を受けて従来の取り組みからの転換を模索している。本レポートでは患者を中心とした医療の実現につながるアプローチとして、地域またはポピュレーションアプローチ 12 を通じた受診勧奨の事例を挙げた。本来、製薬企業に求められる新薬開発による価値の提供は極めて重要である。しかし、医療のあり方が大きく変わろうとする黎明期にあって、患者との接点を見直し、患者の体験価値を最大化するための取り組みも等しく重要になると考えられる。例えば、民間企業や自治体などと連携し早期に患者にアクセスできる環境を構築すること、処方と服薬アドヒアランスの向上に向けたサービスを一体的に提供すること、あるいは患者の服薬時の心的反応をつぶさに観察し、既存製品のブラッシュアップを図ることなどが挙げられる。医療への貢献と持続的な収益向上が実現することが、今後の製薬企業に期待される役割となる。
12 集団全体を対象として健康増進や疾病予防に関する働きかけを行い、集団全体の健康リスクを減らす方法