イノベーションは一つずつの成功の積み重ねによって成し遂げられる性質がある、ということもナラティブデータが重要な理由である。ブレイン・テックの代表的な技術の一つにBMIがある。BMIは「脳卒中治療ガイドライン20217」で、有効性が「エビデンスレベル<高>」として初収載された。社会からの信頼を獲得したブレイン・テックの先駆的な例であるが、国内の第一人者である牛場氏によると、開発当初は技術に対して懐疑的な声がほとんどであった。しかし、その中でも牛場氏は「科学に対して誠実であろうという姿勢」を持ち続け、エビデンスを示す努力を続けること、まだ分からないことは「分からない」ということ、ナラティブな声を届けることを実践してきた(牛場氏の講演動画はこちら)。牛場氏は、実際の脳卒中患者の声に耳を傾け、応えるべくしてBMIを開発し、一例ずつ成功例を増やしていった。数例の成功例を示すと、BMIを用いた治療に対して懐疑的な見方をしていた医師や研究者の態度が変わってきた。さらに検証や改善を重ねる中で、世界中に同志も増え、エビデンスが蓄積されていった。その結果、脳卒中診療ガイドラインへの収載や、Principles of Neural Sciences 第6版8でのBMIの解説章掲載に至った。消費者のナラティブな声は、イノベーションを育くむきっかけとなりうるものであり、エビデンスと同様に、蓄積していくことが重要である。
意味のある指標を考える際には、重要な観点が二つある。一つは、
多様なユーザーを想定した指標の検討と開発である。一般消費者向けブレイン・テックのユーザーには、①生活者や消費者、②サービス開発者、③トレーナーなどヘルスケアに携わる専門職者が考えられる。これらの多様なユーザーそれぞれにとって、ブレイン・テックを利用することの意味が最大化されるような計測指標やシステムを考案することが、信頼の獲得につながるであろう。意味のある指標を開発する手段の一つに、患者やユーザーを巻き込んだ
Patient & Public Involvement(PPI)に基づいた検討がある。PPIによる検討は、ヘルスケア領域では経済産業省が主催するAMEDで始まっている11。AMEDでは多面的価値評価、行動変容指標、臨床評価法開発等が行われているので、これらの最新の状況を注視しつつ、ブレイン・テック分野で活用することを推し進めたい。
もう一つの重要な視点は、
一般消費者が望む「健康」とは何なのかをしっかりと定めることである。この視点は、特に行動や身体機能の変容を目的としたブレイン・テックにおいて重要となる。「健康」の概念は、日々変化している。WHO憲章では健康を「肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」としている12。これはいわゆる心身の状態(コンディション)が最適な状態を指しているが、近年はいかに生きるかという点が重視され、QOLやWell-being、幸せ(Happiness)という概念が健康に含まれるようになった。イギリス医師会雑誌(British Medical Journal)は、2011年に「社会的、身体的、感情的困難に直面したときに発揮される適応・変化(adapt)と自己管理の能力に重点を置くこと」を健康の概念として提案した13。また日本医師会は、2018年に「本人が自分らしく生きる、その意思決定ができる能力を持つことで、それを支援する環境や過程を含めて健康を捉える」という指針を答申している。健康の価値は時代とともに変遷しているので、時代や社会が求める「健康」の意義を考えつつ、ユーザーにとって意味のある指標を考え、それらを利用して製品・サービスの効果効能を保証する方法を、産官学民は連携して考えていくべきと言える。
ルール作りにおいて、産官学民が連携していくことは重要である。その一方で、事業者(企業)の競争性というビジネスの本質を考慮すると、連携によって情報を共有し足並みを揃えることが、事業者にとって望ましいとは限らない。池田和隆氏は、
競争前連携のスキーム、特に
Public Private Partnerships(PPPs)の考え方が、この懸念を解決する手段であると紹介した(池田和隆氏の講演動画はこちら)。PPPsとは、民間事業者の資金やノウハウも活用して官民で社会資本を整備し、公共サービスの充実を進めるものであり、産官学連携の一つのタイプである19。PPPsは、医薬領域では国際的に用いられている用語で、日本では日本神経生理薬理学会(JSNP)が率先して進めている。
MS金井PJでは、ブレイン・テック領域においても競争前連携の実現が望ましいと考えている(図3)。競争前連携によって大規模な研究基盤の構築やリソースの共有を行い、それらを各社の開発へと展開することで、限られた投資の中でもインパクトのある技術開発が可能になると考えられるためである。世界的なイノベーションを推進してきたGAFAを例にとると、Amazonは研究開発費に莫大な投資を行っており、その額は2017年度に約2兆5000億円におよんでいる。その結果、最先端テクノロジーを活用したレジのないコンビニ「Amazon Go」や、クラウドコンピューティングサービスである「Amazon Web Services(AWS)」など、先端的なサービスやシステムが生み出された。「これらの開発過程で失敗を許容する文化があったことが、今日の成長を支えてきた」と、講演で堂田氏は示唆していた(堂田氏の講演動画はこちら)。しかしながら、単一の企業がAmazon並に研究開発費を投資することは簡単ではない。競争前連携は、限られた投資の中で迅速な市場投入による失敗の経験と、失敗を糧にした社会課題の解決につながるイノベーションの推進を可能にするだろう。
皆が分析しやすい形で、構造化されたデータベースを構築することもRWDを扱う上で重要である。RWDは、データが多ければよいというわけではない。存在するすべてのデータを対象とすると、非構造化データの分散が過大すぎて、処理ができないという課題が生じる。無造作な大規模データベースよりも、健康診断データのように小規模であっても目的をもって取得されたデータの方が、研究や開発で活用しやすい。ブレイン・テックにおいても、標準化された条件や課題を定めて、例えば脳波データであればどのように構造化して共有するか、議論を進めていくべきと考える。MRIを含む脳画像データセットの場合、既にBrain Imaging Data Structure(BIDS)形式と呼ばれる、脳画像データセットのディレクトリ構造・ファイル形式(命名規則)を定めた仕組みが存在している。BIDS形式でデータを共有することで、管理がしやすく、データ集約や共有のコスト、ヒューマンエラーを減少させることができている。また、最適化・自動化された解析プログラムを作成するのにも便利である21。
1. 国立研究開発法人科学技術振興機構ムーンショット型研究開発事業 Internet of Brainsウェブサイト(取得日:2022年12月1日 https://brains.link/ ) 2. 国立研究開発法人科学技術振興機構ムーンショット型研究開発事業 Internet of Brains ブレイン・テック ガイドブック 掲載ウェブページ(取得日:2022年12月1日 https://brains.link/braintech_guidebook) 3. ムーンショット金井IoBプロジェクトYoutubeチャンネル (取得日:2022年12月12日https://www.youtube.com/channel/UCe3yCy3sSM6ChgJHmcq2sIw?app=desktop) 4. AGREEⅡ 日本語訳. 公益財団法人 日本医療機能評価機構 EBM医療情報部. 2022年9月 5. 認定 NPO 法人 健康と病いの語り ディペックス・ジャパン ウェブサイト(取得日:2022年12月1日 https://www.dipex-j.org/) 6. Porter, ME., and Mark RK. Creating shared value. Managing sustainable business. 2019; 323-346. 7. 一般社団法人日本脳卒中学会 脳卒中ガイドライン委員会編. 脳卒中治療ガイドライン2021. 2021年7月15日. 株式会社協和企画発行. 8. Eric, R. Kandel., et al. Principles of Neural Science, Sixth Edition (English Edition). McGraw Hill / Medical. 2021. 9. 科学技術振興機構(JST)・大阪大学プレスリリース. 脳神経科学研究に対する社会からの期待と関心が明らかに ~脳とAIが融合する未来に向け、市民と研究者の意識を調査~(取得日:2022年12月12日 https://www.jst.go.jp/pr/announce/20221208/index.html ) 10. 一般社団法人日本経済団体連合会. Society 5.0時代のヘルスケア(取得日:2022年12月12日 https://www.keidanren.or.jp/policy/2018/021.html ) 11. 令和4年度「予防・健康づくりの社会実装に向けた研究開発基盤整備事業(ヘルスケア社会実装基盤整備事業)」(AMED事業)ウェブサイト(取得日:2022年12月1日 https://www.meti.go.jp/press/2022/04/20220415005/20220415005.html) 12. 厚生労働省 健康日本21ウェブサイト(取得日:2022年12月1日 https://www.mhlw.go.jp/www1/topics/kenko21_11/s0.html) 13. Huber, M., Knottnerus, J. A., Green, L. et al. How should we define health? British Medical Journal. 2011; 343: d4163. 14. Choi, D. G., Lee, H., & Sung, T. K. Research profiling for ‘standardization and innovation’. Scientometrics. 2011; 88(1): 259-278. 15. Blind, K. The impact of standardization and standards on innovation. In Handbook of Innovation Policy Impact, Edward Elgar Publishing, 2016. 16. サイバーダイン社ウェブサイト.(取得日:2022年12月1日 https://www.cyberdyne.jp/) 17. 池田陽子、飯塚倫子. イノベーションを社会実装するための国際ルール戦略:メディカル・ヘルスケアロボット「HAL」の事例研究から. RIETI Policy Discussion Paper. 2019; 19-P-016. 18. 株式会社 KIDS (キッズ)ウェブサイト.(取得日:2022年12月1日 http://mtvr.kazuinomata.co.uk/#body) 19. 平成29年7月28日 日本学術会議臨床医学委員会 脳とこころ分科会. 精神・神経疾患の治療法開発のための産学官連携のあり方に関する提言. (取得日:2022年12月1日 https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t247-4.pdf) 20. 林邦彦. リアルワールドデータの特徴とその利用. レギュラトリーサイエンス学会誌. 2017; 7(3): 197-203. 21. Gorgolewski, K., Auer, T., Calhoun, V. et al. The brain imaging data structure, a format for organizing and describing outputs of neuroimaging experiments. Sci Data . 2016; 3: 160044. 22. 次世代医療基盤法検討ワーキンググループ中間とりまとめ報告書(取得日:2022年12月1日 https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/data_rikatsuyou/pdf/matome1.pdf) 23. 医療分野における仮名加工情報の保護と利活用に関する検討会(第4回)議事次第(取得日:2022年12月1日 https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000938377.pdf)