logo
Insight
情報未来

香りのデジタル化によるヒューメインな社会の実現

No.67 (2021年6月号)
NTTデータ経営研究所 情報未来イノベーション本部 ニューロイノベーションユニット シニアコンサルタント 山﨑 崇裕
Profile
author
author
YAMAZAKI TAKAHIRO
山﨑 崇裕
NTTデータ経営研究所 情報未来イノベーション本部 ニューロイノベーションユニット
シニアコンサルタント

東京大学大学院(理学博士)・助教を経て2016年度より現職。主に製造業の分野で、マーケティング調査・商品開発・事業開発支援に従事。その他にも、がん免疫療法、医療機器、医療倫理、COVID-19などヘルスケア・ライフサイエンス分野での幅広い調査経験を持つ。

 香りは普段はあまり意識されていないが、実は好き嫌いがはっきりしている上、感情にも作用しやすく、消費者に与えるインパクトは大きい。逆に香りが感じられなくなると、食べ物の美味しさがほとんど感じられないなど、恐ろしいほどに彩のない世界になることは、経験せずとも想像することができるのではないか。本稿では、そんな日常生活に欠かせない「香り」を扱う上でのビジネス課題を整理し、課題解決策としてのデジタルアプローチと、それによって広がるビジネスの可能性について考察する。

香り産業の現状と在るべき姿

 香りを扱った商品・サービスとして代表的なものは、香水、洗髪剤・柔軟剤、化粧品、ルームフレグランスなどの「いい香りの商品」や、エステ・サロンなど「いい香りが提供されるサービス」であろう。飲食品も口の中からフレーバーとして香りを感じ、香りは味覚に大きく寄与することから、飲食品も香りを扱った商品だといえる。そこではユーザーも香り(の価値)を求め、メーカー・サービス提供者もユーザーが求める香り(の価値)を提供しようとする。以下では、まずその捉えるべき香りの価値(効果)について整理をした上で、課題について考察したい。

(1) 香りの効果(価値)と課題

 香りの効果として、ここでは大きく「感情」「印象」「食欲」の3つに分類した(図1)。「感情」の表現は様々あるが、ここでは嗜好性(快/不快)と、覚醒/鎮静を例示した※1。香りを嗅ぐことで直接的に惹起する感情や生理反応に該当する。「食欲」は香りを嗅ぐことで直接的に惹起される生理反応である。「印象」は、知覚された香りの質感に対するラベル付けで、「甘い」「さっぱりした」など言語との紐づけ・関係性が含まれる。なお、香りは鼻先から感じるフレグランスと、口の中から感じるフレーバーに分けられるが、フレーバーによる「美味しさ」はフレグランスの「嗜好性」に対応させることができるので、ここではフレグランスとフレーバーを区別していない。

図1| 香りの効果(価値)とそれを捉えるための課題

content-image

出所| NTTデータ経営研究所にて作成

 これまでの香りサービス・商品は図の赤枠に示すように一般的な傾向として捉えられる価値しか追求することができていないため、なるべくTPO or ユーザーのシーンや目的に応じた個別・具体的な香り価値を追求する余地がある。さらに香り感覚の言語表現については、現状、調香師に頼ることが多く、かつその言語のレパートリーも限定的である。客観的で且つユーザーのあらゆる価値に紐づけるためには、「データに基づいた網羅的な言語との紐づけ」が必要になると考えられる。これらの香りの価値を捉える上で、課題となるのは以下の3点である。

課題① いかに香りに対する多様な嗜好性を捉えるか

 「嗜好性」については個人によって様々に変わり得るので、捉えることが難しい。香りには、「コーヒーはいい香り」「汗の匂いは不快」など多くの人で同じような印象・感覚を持つレベルがある一方、「いい香り」の中でも、例えば柑橘系の香りを好む人もいれば、好まない人もいる。さらに、コーヒーを「いい香り」と感じる人の中でも、複数種類のコーヒーの中でどれが一番好きかは人それぞれだ。コーヒーが嫌いな人にとっては、もしかしたらコーヒーの香りも不快に感じてしまうかもしれない。このように、人によって香りの感じ方が変わってしまうのは、香りそのものの性質、すなわち「物質としての香りの(種類の)多様性」と、感じる側(脳)の性質である「経験(記憶)との紐づけやすさ」などが原因として考えられる。

課題② いかに香りの効果を可視化するか

 「食欲」のみならず、「感情」の要素である「覚醒・鎮静」についても言えることだが、香りの効果自体が微細な変化であるため、その効果を実証することが難しい。さらには、香りを嗅ぐときの状態によって効果が変わること、つまり効果の個人差も実証の難しさの要因となる。逆に、例えば「母親に愛着を感じさせる赤ん坊の香り」など、香りの効果が示されていたとしても、それが混合物(複合香料)である場合には、その効果を生じさせる成分同定が難しいということもある※2

課題③ いかに香りに対する感覚を言語化するか

 香りを形容する言葉としては、「甘い」「すっぱい」などの味覚表現や「さわやか」などの抽象的な表現が用いられたり、「柑橘系」「オリエンタル系」など系統の分類表現などが用いられる。しかし、香りの質感をダイレクトに表現する言葉はない。そのため、言語などを用いて香りを評価すること自体が、香りの「価値付け」にもつながる。例えば、「エレガント」になりたいと思う女性に対しては「エレガントな香料」を提供することが求められる。現状、調香師などの専門家が香りを評価・調合しているが、「これがエレガントな香りです」と専門家に言われても納得できないケースもあり得る。つまり、香りに対する印象(官能)の客観的な評価系が求められる。

 脳の構造としても、嗅覚以外の感覚情報は視床を介して大脳新皮質へ情報が伝えられ、意識的に捉えられるが、嗅覚情報は視床へ伝えられず、偏桃体など感情を司るとされる原始的な脳領野(大脳辺縁系)に直接的に伝えられる。このことは、嗅覚が他の感覚に比べて意識的に捉えることが難しく、また香り刺激が直接的に感情に影響を及ぼすことの証左でもある。

(2) 課題解決に向けた取り組み

 香りの価値の中でも「嗜好性」はユーザーが意識的に求める香りの価値として比重が大きく、企業にとっては、人によって異なる嗜好性を如何に捉えるかが大きな課題であるといえる。前述の課題①に対して、国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)の事業である「未来社会創造事業※3」では、データに基づいた取り組みを進めている。さらに本事業では、前述の課題③に対する取り組みとして、香りに対する感性を言語化するための「香り意味空間の構築」の検討を進めている。

① 香り×人間情報データベースの構築

 当社では全国約5万人規模のモニターから、表面的なデモグラフィックな情報だけでなく、価値観や嗜好性、性格傾向などの深い情報を集めた「人間情報データベース」を運営・管理している。そのモニターを対象に、様々な香りに対する知覚・認知などの情報を収集し、香り×人間情報データベースの構築を進めている。方法としては、香料を染み込ませたシートを配布し、それを嗅いでもらいながらモニター画面上の設問に回答頂くというやり方で、様々な香りに対する感覚データを収集する。その香りデータを含めた人間情報データベースから、モニターのセグメント化(タイプ分け)や、香り嗜好性に相関するデータなどを分析することで、消費者特性の新たな知見獲得とそれに基づくサービス展開を目指すものである。

②香りに対する印象(官能)の客観的評価系「香り意味空間」の構築

 前述の「未来社会創造事業」では、香りに対する印象(官能)の客観的評価系として、「香り意味空間」の構築を進めている。香り意味空間とは、言葉と言葉の意味の近さを表現した空間で、香りを評価するための「物差し(客観的評価系)」に相当する。その空間に香りをプロットすることで、香りを評価することができる。プロットした香りの周辺にどのような言葉がどれくらいの近さ(遠さ)にあるかについても、「甘い0・5」「さわやか0・3」…といった形で評価できる。同事業では、その意味空間を構築するための言語データソースや解析方法も検討している。

(3) 新規香料予測のための「香りのデジタル化」

 扱う香料が限られているのであれば、それらの香料に対するユーザーの感性などのデータを集めて価値予測モデルを作ることで、ユーザーのシーン・目的にあった最適な香りを享受するための香料選択が可能となるだろう。しかし、新規香料を提案するためには、その新規の香料に関する価値も予測する必要がある。実際、企業での新規香料開発は専門家のノウハウに依拠するところが大きいのだが、データに基づいたアプローチを組み合わせることによって、専門家が思いもよらない香料を見出せる可能性がある。

 「どの成分がどれくらい」といったように、香りを物性データとして捉えた場合、香りの種類(組み合わせ)は限りなく存在する。この、香りそのものの多様性は、人における効果・知覚以前の段階であるという意味で、香りビジネスにおける種々の課題の根源的な要因だといえる。その香料の無限にも近い多様性を有限のものとして捉えることができれば、無限に近いものを予測するよりは有限のものを予測する方が容易であるため、データに基づいた新規香料開発が現実的になる。

 ではどのようなやり方で香りを有限なものとして捉えればいいだろうか。それには、「ビジネス上の制約」と「人の匂い受容の制限」という二つの観点がポイントになると考えられる。食品の場合、食糧成分として認可されたものしか使えないので、香りの成分をその食糧成分に限定させることができる。また、人の鼻における匂いセンサー(嗅細胞)の種類は有限であり※4、それらがどのように反応するか、というデジタルデータとして捉えれば、香りを有限のものとして捉えることができる。ビジネスにおいては人がどのように感じるかということが価値であるため、物性データより細胞の応用性をデジタル化した方が、香りに対する人の感じ方との対応付けが容易になることも更なるメリットだ。酸っぱさ、甘さ、など匂いの質感を惹起させるために重要な細胞を特定することは原理的には可能であり、特定の質感を惹起させる嗅細胞群を刺激する新規香料開発などにも活用できる※5。香料のデジタルデータと「美味しさ」との関係性を見出すことができれば、美味しさを追求しつつ、安価な原料や健康な原料に代替させるといったことが可能になる。

 香りをデジタルで捉えた上で、香りの価値情報と紐づけ、そのデータセットの蓄積によってはじめて「香りの価値予測」と「新規香料予測」が可能となる。ただ、データを蓄積するにも限度があるので、機械学習などの最先端の解析技術を用いて予測モデルを構築することが必要になるだろう。未来社会創造事業においては、香りのデジタル化も含めた「香りの価値予測」と「新規香料予測」の試みを進めている。

さいごに

 現状、企業がユーザーのニーズを的確に捉えきれておらず、ユーザーも香りを「なんとなく」で使用しているが、そこには香りとユーザーのより良いマッチングの可能性や、香りが利用されていないシーンで香りの恩恵を享受できる可能性がある。企業によるアプローチとしては、個人レベルの香り価値データを蓄積することで、大衆から一部のユーザー(ターゲットなど)まで様々なレベルでの香り価値の予測が可能になると考えられる。香りはユーザーのシーンや目的、さらには時代に応じて感じ方が変わることもあって、状況やトレンドに応じた香料の提案・リニューアルが求められるが、香りを有限のデジタル情報として捉えることによって、専門家の創造性に頼るだけでなく、データに基づいた革新的な新規香料開発が可能になると考えられる。

 ウィズコロナ社会において、香りを扱った商品・サービスの価値は以前に比べさらに高まった。感染への恐怖や外出自粛などによる行動制限から、ストレスが高まり、メンタルヘルス不調を感じる方は少なくないだろう。香りはそんな行動が制限された状態でもメンタルコントロール手法として活用できる。日々の食べ物・飲み物の美味しさの追求や、香りによるリラックス効果など、意識的に香りを日々の生活に取り入れる必要性は以前よりも増している。

 企業とユーザーが香りを意識的に有効に活用することは、人々が心身ともに本来あるべき生活を送り、コミュニケーションが成り立つ社会、すなわち「ヒューメインな社会」を実現することに有効なのではないだろうか。

※1 Russellの感情円環モデル(Russell, J. A., & Barrett, L. Feldman, 1999)

※2 ストレスフリーな採取・分析法の開発により新生児の匂いを化学的に解明 ―匂いによる親子の絆形成との関係解明に期待―(2019/09/04)

 (https://www.kobe-u.ac.jp/research_at_kobe/NEWS/news/2019_09_04_01.html)

※3 香りの機能拡張によるヒューメインな社会の実現(JST未来社会創造事業)

 (https://www.jst.go.jp/mirai/jp/program/safe-secure/touhara/kaori.html)

※4 嗅細胞の種類は400種類程度あるので、この場合、約400次元のデータとなる。

※5 (https://www.jst.go.jp/pr/announce/20190114/index.html)

本稿に関するご質問・お問い合わせは、下記の担当者までお願いいたします。

NTTデータ経営研究所

情報未来イノベーション本部

ニューロイノベーションユニット

シニアコンサルタント

山﨑 崇裕

E-mail:yamazakita@nttdata-strategy.com

Tel:03-5213-4115

TOPInsight情報未来No.67香りのデジタル化によるヒューメインな社会の実現