logo
Insight
情報未来

パンデミック下におけるナッジ活用の可能性

No.64 (2020年7月号)
行動デザインチーム執筆者
NTTデータ経営研究所 社会基盤事業本部 ライフ・バリュー・クリエイションユニット マネージャー/行動デザインチーム 発起人 小林 洋子
シニアマネージャー 北野 浩之
シニアコンサルタント 西口 周
コンサルタント 小林 健太郎
Profile
author
author
KOBAYASHI YOKO
小林 洋子
NTTデータ経営研究所 社会基盤事業本部 ライフ・バリュー・クリエイションユニット
マネージャー/行動デザインチーム 発起人

国際機関、外資系会計事務所を経て現職。

行動科学理論やデータを活かして人の行動をデザインし社会課題の解決に活かす行動デザインコンサルティングサービスを立ち上げ、部署横断の有志による「行動デザインチーム」で健康や医療、コンパクトシティ、行政内部業務など多分野で実践中。

世界を覆う新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、感染拡大防止や事業継続性のための取り組みに対して注目が集まっている。パンデミックとしては、これまでエボラ出血熱や鳥インフルエンザ等が話題となった。今回のコロナ禍もパンデミックと考えられるが、特徴的な事実として 病気の怖さ(=分かりにくさ)がある。執筆している現時点(5月上旬)で国内の死亡者率は4人/100万人程度であり、国内に限っていえば致命的な病気であるとは感じにくい。

日本政府は緊急事態宣言により外出自粛や休業要請をするものの、諸外国のような外出禁止令や逮捕・罰金を伴う強制措置やロックダウン(都市封鎖)を行なっておらず、緊急事態宣言が諸外国に比べて遅れた理由も、死亡率の低さが1つの理由だったと推察される。

このような状況で、行動制限は政府や自治体から「国民へのお願い」という形をとっており、国民の側に選択の余地が残されている。新型コロナウイルスの根本的な解決には有効なワクチンや治療薬が開発されるか集団免疫の獲得が必要になるが、いずれにしても長期化することが予測されている。それまでの期間、あらゆる手段を用いて国民の自発的な行動抑制(行動変容)を促し、感染拡大防止の実効性を高めることが求められている中で、人の行動を後押しする「ナッジ」活用への期待は大きい。

本稿では、一連のコロナ対策のナッジ的事例を紹介しつつ、今後の活用可能性について考察したい

1.ナッジとは

人は意外と不合理な行動を取るものである。私たちはダイエットをしようと思っても「今日は大丈夫」と先延ばししてしまったり、友人・知人の話やつり革広告などの身近な情報を正しいと信じてしまったりする。このような人の行動原理を研究する行動科学の理論に基づき、人がより良い行動をしやすくするきっかけを作り、後押しする手法がナッジ(nudge)である。強制でも自由放任でもなく、より良い行動を取りやすくしつつも本人の選択の自由を守るという考え方(リバタリアン・パターナリズム)がナッジの根幹を成している。

人の行動に影響を与える要因には、個人要因と環境要因がある。何か行動をするために必要な知識やスキルは前者、そしてヒト・モノ・カネ・情報や法制度などの行動を実現するための必要条件は後者に当たる。しかし、これらの条件が揃っても「その気」にならなければ行動しないのが人の常である。行動するためのもう一つの個人要因「モチベーション」に働きかけて行動を後押しする試みがナッジと言える。

経済協力開発機構(OECD)のレポートによると、2018年時点で世界200以上の公共機関等がナッジを活用する専門部署を持っており、ポイ捨てなどのマナー対応から野菜摂取、税金の滞納、環境行動、老後の貯蓄促進など幅広い政策分野でナッジが使われている。

2.政策手法としてのナッジの位置づけ

国民の行動変容を促し政策課題を解決するという観点からみると、ナッジはそれ自体で効果的な場合もあるが、多くの場合、既存の政策手法の効果を高めるピースとしての側面が強い。既存の政策手法とは、法律、制度等により特定の行動を規制する「規制的手法」、補助金、減税等の金銭的インセンティブにより特定の選択肢に誘導する「財政的手法」、情報提供や啓発により特定の行動を促す「情報的手法」を指す。

新型コロナウイルス対策におけるナッジの効果を適切に評価するには、まだ時期尚早である。しかし、様々な分野においてナッジが使われる中でも、新型コロナウイルス対策は比較的ナッジが活用しやすい分野だと言えそうだ。

その理由として、無症状者もいる中で全ての国民が自発的に行動を取る必要があったこと、手洗いやソーシャル・ディスタンス、ステイ・ホームなど「望ましい行動」が明確であったことが挙げられる。明示的にナッジと呼ばれたか否かはさておき、実際に新型コロナウイルス感染拡大防止のために多くのナッジ的な取り組みが行われた。その中から、国民の自発的な行動を促す効果を高めたと考えられる事例を紹介する。

(1) 規制的手法の政策効果を高めたナッジ的事例

冒頭でも述べた通り、住民の不要不急の外出について、諸外国では罰則の伴う外出規制を実施したケースも多いが、日本の外出自粛要請には強制力はない。そこで、外出自粛の呼びかけ方を工夫することにより、要請の効果を高めようという取り組みが見られた。

a 利他性の活用

人は主に危険な状況に陥った時、自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小に評価したりしてしまう傾向、すなわち「正常性バイアス」を持っている。災害時に情報提供があるのにもかかわらず避難行動がとられない現象は、正常性バイアスが影響している例として有名であるが、「自分は感染しないだろう」と思いこみ外出をしてしまうという行動についても、同様に正常性バイアスの影響が推察される。

避難行動については、避難による個人の利得を強調するメッセージよりも、「あなたが避難することは人の命を救うことになる」という利他性を強調したメッセージの方が避難促進の効果が高いことが明らかになっている。このことから、小池都知事が発した「ひとりひとりの行動がみんなの命を救います」というフレーズなどは、「利他性」を活用して自粛を促進するナッジとして機能しているのではないかと考えられる。

b 具体的行動の指示

外出自粛要請を受け、どのような行動を取るべきかについてメディアやSNSで様々な情報が飛び交った。このように、情報や選択肢が過度に多い状況下では、人は情報・選択を回避したり、経験則や信じたい人の情報に基づいて選択したりするヒューリスティック(試行錯誤)が起こりやすい。このような状況においては、選択肢を絞って提示する「選択肢の簡素化」や、具体的な行動を示して直感的に理解しやすくすることが有効なナッジ手法とされる。

「不要不急の外出自粛」という抽象的なメッセージに留まらず、「人と2mの距離をあける」や「買い物は3日に一度」といった具体的な行動を明示することは、行動変容に効果的であったと考えられる。

(2) 財政的手法の政策効果を高めたナッジ的事例

補助金等の経済的インセンティブは良く利用される政策手法である。しかし制度を用意し、その存在を周知したとしても、その制度が複雑だと「認知疲労」が起こり、十分に効果が発揮されないことがある。この場合、「簡素化」が有効とされる。

米国には「FAFSA(連邦学資援助無料申込)」という奨学金申請制度が存在するが、この制度について情報提供のみを行った高校生グループの大学進学率には改善が見られなかったのに対し、納税記録から自動的に申請書の一部を作成するソフトを用いて申請プロセスを簡素化した場合、対象グループの大学進学率は8・1%も向上したとの研究結果が報告されている。

5月1日より申請受付が開始された経済産業省による「持続化給付金」では、6月16日現在、様々な問題が取りざたされてはいるが、書類の提出等を含めた申請手続きがすべて専用ホームページ上で行えるようになっており、従来の補助金申請等と比べて手続きが大幅に簡素化されている。これは、上記FAFSAの例と同様に簡素化のナッジとして機能させようとしているのではないかと推察される。

(3) 情報的手法の政策効果を高めたナッジ的事例

「(1)規制的手法の政策効果を高めたナッジ的事例」においても記述した通り、人は情報過多の状況や、必要な情報が分かりにくい場面では、大きな認知的負荷が発生してしまい、適切な意思決定・行動が妨げられることがある。この場合は「意思決定ガイドの提供」が有効とされている。

東京都などの新型コロナウイルスに関するホームページ※1では、症状や状況別に相談窓口が一目で分かるようなフロー図等の認知的負荷軽減につながる工夫が見られ、適切な受診行動等の促進に寄与していたと考えられる。

(4) それ自体で行動を後押ししたナッジ手法

こまめな手洗い・消毒の実践や、ソーシャル・ディスタンスの確保など、思ってはいても、他のことをしている間についつい忘れてしまうことは多いのではないだろうか。人には、同時に複数のことを行っている場合や、異なるタスクの間を行ったり来たりしている場合には認知能力や情報収集能力が制限される心理特性がある。そこで効果を発揮するのが、視覚を利用して望ましい行動を促す、「顕著性の向上」と呼ばれるナッジ手法である。

例えば、京都府宇治市では、消毒用アルコールによる手指消毒行動を促進するために、建物の出入口に設置している消毒用アルコールに向かって、床に黄色い矢印型のテープを設置した(図1)。これにより約10%のアルコール利用率の増加につながったと報告されている。また、スーパーなどではレジ待ち列の間隔を広げるため、床に足跡のマークを付ける工夫を行っている場合も多く、これも「顕著性の向上」をうまく活用している例と言える。

図1|イエローテープによる消毒用アルコールへの誘導

content-image

出典| NTTデータ経営研究所作成

3.意識的にナッジを使って効果を高める

本稿では新型コロナウイルス感染拡大防止で使われたナッジ的事例を紹介した。ナッジが普及したこともあり、多様な事例が表れているが、敢えて問題提起をして本稿の結びとしたい。

これらの取り組みの効果はいかばかりであっただろうか。もちろん検証するのは時期尚早との議論もある。しかしナッジを活用した行動デザインの基本的な考え方は、PDCAを回して効果を評価し、精度を高めることにある。行動変容の取り組みをせっかく実施したのだから、効果を評価する仕組みを導入することで精度向上や他分野への取り組みへの応用などが期待される。長期化の様相を呈しているコロナ禍である。ぜひ多様な取り組みを行うこと、更にはその評価を実施し、検証と改善のステップを設けることを提案したい。

また、ナッジは冒頭で紹介した通り、モチベーションに働きかけて行動を変えるきっかけを提供するものであり、いわば「やる気スイッチを押す」役割を果たす。コロナウイルス対応以外でも、人の行動を促す様々な取り組みを行う際に、やる気スイッチを押すナッジを意識的に取り入れることで効果を高められるだろう。社会課題解決に向けて様々な分野でナッジを取り入れた行動デザインは今後ますます注目されていくはずだ。

※1 東京都 新型コロナウイルス感染症対策サイト“新型コロナウイルス感染が心配なときに” https://stopcovid19.metro.tokyo.lg.jp/flow/

本稿に関するご質問・お問い合わせは、下記の担当者までお願いいたします。

NTTデータ経営研究所 社会基盤事業本部

ライフ・バリュー・クリエイションユニット

マネージャー

小林 洋子

E-mail:kobayashiy@nttdata-strategy.com

コンサルタント

小林 健太郎

E-mail:kobayashik@nttdata-strategy.com

Tel:03-5213-4110

TOPInsight情報未来No.64パンデミック下におけるナッジ活用の可能性