(1)様式変更の目的
政府は4月9日、日本銀行券(E1万円券、E5千円券、E千円券)と500円硬貨の様式変更(以下「改札」)を公表した。2024年度上期をめどに新紙幣と硬貨を発行する予定だという。前回の改札は2004年11月なので、20年振りの一大イベントである。財務省によれば、その目的は「偽造抵抗力の強化等」とされている。
日本の紙幣・貨幣製造技術は世界に冠たるものがあり、通貨偽造被害は諸外国に比べ非常に少ないが、安住してはいられない。近年の技術進歩を勘案すれば、偽造する側のスキル向上は容易に想像できるからだ。例えば画像の解像度。デジカメの画素数は2004年頃の400万画素前後から、現在は3000万画素以上に向上している。印刷技術では、通常プリンターの解像度向上に加え、3Dプリンターが普及しつつある。こうした複製技術の向上を踏まえれば、今回、政府・日銀が3Dホログラムなど最先端の技術を導入して、偽造に強い通貨へ切り替える決定をしたことは、必要かつ適切な措置だと考える。
(2)タンス預金との関係
タンス預金の額
今回の改札は、「タンス預金をあぶり出す目的もあるのではないか」との見方がある。
そもそもタンス預金はどれだけあるのだろうか。タンス預金は、通貨の価値保蔵需要が強まるときに積み上がる。1万円券の動きには価値保蔵需要と取引需要の双方が反映される。千円券だけで多額のタンス預金をすると保管場所に困るだろう。そこで、①タンス預金は専ら1万円券で保有される、②千円券の動きは専ら取引需要による、と仮定して、1万円券と千円券の伸びの差からタンス預金を推計する手法がある(日銀レビュー、2008-J-9)。日銀の分析では、2007年時点のタンス預金残高は30兆円程度とされた。30兆円を発射台として、同じ手法で2018年のタンス預金を推計すると、50兆円弱となる。同年の1万円券流通高(100兆円)の約半分に相当する。
通貨流通高の変動と要因
では、改札はタンス預金を含む現金需要にどの程度影響するのか。わが国では新札の流通開始後も旧札が通用する。現在でも、現行発行紙幣に加え、聖徳太子の1万円札など18種類の旧札が使用可能だ。次回改札以降も、法的措置を講じない限り旧札は通用する。従って、改札によってタンス預金が一気に新札に換金されることが生じにくい制度である。
実際はどうだったか。2004年前後の通貨流通高(市中に出回っている現金残高)の動きをみよう。図1の棒グラフは通貨流通高の前年比である。現金保有の機会費用の指標として、5年定期預金の金利を折れ線で示した。通貨流通高の前年比は、2002年には+12%と急増していたが、改札公表後の2003年から伸び率が鈍化し、改札年の2004年には+1%台まで低下した。上述した日銀の分析でも、2004年にはタンス預金推計値の一つは若干減少している。
これは改札の影響のようにもみえるが、2002年にはペイオフの部分解禁が実施されており、現金の動きには金融システム不安が大きく影響している(同年の定期性預金残高(注)は前年比10%超の大幅減少となった)。2004年は金融システムが安定に向かっていた時期で、現金が金融機関に還流する流れの中で改札が実施されたので、改札単独の影響は見極めにくい。2005年には前年比が+2%台に高まっているので、改札の影響はあったとしても短期間で終息したようにみえる。
2006年から2010年にかけて、通貨流通高の伸びは明確に低下している。これは、①量的緩和政策の終了(2006年3月)に伴う定期預金金利の上昇によって現金保有の機会費用が増加し、定期性預金への還流が生じたこと、②リーマン・ショック(2008年9月)後の景気後退によって取引需要が減少したこと、の影響と考えられる。
2013年以降、通貨流通高は前年比4%前後の高い伸びを続けている。5年定期預金金利は、既に2010年頃から0.1%未満に低下していたが、日銀のマイナス金利政策の実施(2016年2月)を受けて一段と低下し、2016年頃からゼロ近傍に貼り付いている。2013年以降の通貨流通高伸び率の上昇は、①既往の金融緩和の影響を含め、現金保有の機会費用がほぼゼロに低下したことと、②政府の経済対策や異次元緩和によって経済活動が活発化し、現金の取引需要が増加したこと、の影響と考えられる。また、2015年1月の相続税制度改正(基礎控除額の縮小)も現金需要の増加をもたらした可能性がある。
ここで、日銀から金融機関への年間の銀行券支払額と、逆の受入額の推移をみよう。支払額は日銀から市中への銀行券の供給額、受入額は市中から日銀への銀行券の還流額をあらわす。支払額が受入額を上回れ(下回れ)ば、その差分だけ市中の銀行券流通高が増加(減少)するという関係にある。
2013年の異次元金融緩和以降の動きをみると、リーマン・ショックを受けて減少していた支払額が年間60兆円程度まで回復する一方で、受入額は減少トレンドにあり、ネット支払超額が拡大している。超低金利の持続は、どのような需要であれ、ひとたび現金が市中に出回ると還流が生じにくい状態をもたらしている。
タンス預金還流の条件
今後、タンス預金の大幅な還流が生じるためには、金融システムが安定していること、定期預金金利が一定の水準まで上昇することが必要と考えられる。現在、金融機関は全体として十分な自己資本を備えており、多少の経済ショックが生じるとしても金融システムは当分安定性を維持するとみられる。仮に不安定な方向に変化するとしても、それはタンス預金の増加要因である。
従って、今後タンス預金の本格的な還流が生じるかどうかは、金融政策が正常化した後の預金金利水準が鍵を握るといってよい。
定期性預金の動きと金利水準
では、タンス預金の還流をもたらす定期預金金利の水準はどの程度だろうか。これを探るため、過去の定期性預金残高と預金金利の動きをみよう(図3)。まず、マイナス金利政策実施前の2015年までの数年間(5年定期預金金利0.03%)は、定期性預金の前年比が小幅なプラスで推移している。しかし、図1でみたとおり、この時期に通貨流通高は大幅に増加しており、タンス預金の還流は生じていない。次に、リーマン・ショック前の2007年末の金利水準(5年定期0.6%、1年定期は0.3%)では、翌年の定期性預金残高が明確な前年比プラスに復している。このあたりの金利水準が手掛かりになるかもしれない。
しかし、超低金利の長期化により、人々が現金保有に慣れてしまい、預金金利への感応度が鈍化している可能性もある。その場合は過去の動向からバックワードに分析しても有効とはいえない。そこで、日本に先んじて利上げに転じた米国の動向をみよう。米国の中央銀行(FRB)は、2015年末から政策金利の引き上げを開始し、現在までに累計で2.25%引き上げた。預金金利も上昇しており、最近では1年定期で0.6~0.7%程度となっている。しかし、米国の銀行券流通高は2018年末時点で前年比+6.4%と、依然として高い伸びを示している。2017年末(+7.4%)に比べれば増勢はやや鈍化しているものの、定期預金金利がこの程度では、現金から定期預金への大幅な還流は生じない可能性が示唆される。
米国の今後の預金金利水準に注目していたが、世界経済を巡る不確実性の増大を受けてFRBの金融政策スタンスは中立化から緩和方向に傾き、市場では年内の利下げが予想される展開となっている。米国でも、預金金利が低い状態がさらに続きそうであり、現金需要は弱まりそうもない。
以 上